ベンヤミンの映画芸術論

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複製技術の芸術作品への適用は映画に至って質的な変化をもたらした、とベンヤミンはいう。模写にせよ写真にせよ、それまでは、芸術作品の複製に過ぎなかったのに対して、映画においては複製から芸術作品が生まれる。つまり、芸術の複製ではなく、複製の芸術とでもいうようなものが生まれるわけである。

たとえば写真と映画を比較してみよう。写真の場合には複製されるものは芸術作品ではあっても、写真自体は芸術作品とは言えない。映画の場合には、複製される対象は芸術作品ではないが、複製された映像を組み合わせることで、映画という芸術作品が生まれてくる。それを支えているのは、モンタージュという新しい技法だ。モンタージュとは、切れ切れの映像を組み合わせてひとつの統一した映像を作り出す働きのことを言うが、ベンヤミンはこの技術に非常に注目して、映画芸術にとどまらず、様々な事象を分析するためのキー概念としても使用するようになる。

ともあれ、モンタージュの技法を用いることで、同じく映像芸術でありながら、映画は写真とは全く異なったものとなり、映画は新しい次元に達したのだとベンヤミンはいうのである。

ところが、映画において生じているこの大きな変革の意義を、理解できない人々が多くいる。たとえば、「セヴラン・マルスは、フラ・アンジェリコの絵画についてなら語れそうなことを、映画について語ってはばからない」(「複製技術の時代における芸術作品」野村修編訳、以下同じ)という具合に、彼らは映画を従来の芸術の延長上のものとしてしか見ない。実際には、映画はそれ以前のどんな芸術にも似ていない、全く新しい形態の芸術なのだ。

映画には、新しい芸術として様々な特徴がある。その特徴についてベンヤミンは、写真や舞台芸術と比較しながら腑分けしているが、最も大きな特徴は、芸術を大衆化した点であるとしている。大衆化の秘密は、映画が複製作品として、同時に大量の観客の前で演じられるという点である。したがって、映画は、芸術の二つの特性である礼拝的価値と展示的価値のうち、礼拝的価値を徹底的に排除する。それにともなって、芸術作品に特有なアウラもまた消滅する。残された要素である展示的価値についても、従来の芸術とは徹底的に異なった様相を呈している。人々は映画を見ながら、そこに崇拝すべき要素を感じることは全くなく、ただただ気晴らしを求めるだけなのだ。気晴らしの対象としての芸術、それは映画以前にはなかったことだし、また考えられることもなかった。

「ひとびとはこう非難する。芸術愛好家は精神を集中して芸術作品に近づくのに、大衆は作品にくつろぎを求めている。作品は芸術愛好家にとっては崇拝の対象だが、大衆にとっては娯楽の種でしかない、と」(同上)

こうなると、映画が果して芸術といえるのかどうかさえも怪しくなる。単なる気晴らしの対象が、娯楽ではなく芸術と言えるのか。ベンヤミンはこの疑問に対して、映画は従来の芸術とは根本的に異なってはいるが、やはり芸術であることには違いない、と答える。しかしベンヤミンは、映画のどこが従来の芸術と断絶しているかについて熱心に語ってはいても、どこでつながっているかについてはほとんど語らない。彼が語るのは、それが歴史上持つに至った新しい要素としての大衆性だ。この大衆性ということの中に、映画の新しさがある、と。

「芸術作品の技術的な複製可能性は、芸術への大衆の関係を変える。たとえばピカソの絵に対する関係はじつに後進的なのに、チャップリンの映画に相対するとなると、その関係はじつに進歩的なものに急変する」(同上)

ベンヤミンはこのように言って、ピカソのように革命的な絵を描く人でも、絵画芸術の伝統的な制約(それが後進性だ)を免れていないのに、チャップリンの映画は実に進歩的な様相を呈しているといっているわけだ。映画はそれ自体として進歩的な芸術である、というベンヤミンの信念のようなものが伝わってくる。

大衆芸術としての映画には、大衆の無意識の衝動に訴えるようなところがある。これは伝統的な芸術のように、鑑賞する人間と一対一で向き合うことを前提に作られている芸術とは根本的に異なっている。映画は始めから大勢の人々に同時に見られることを前提にして作られている。そこから、大衆の無意識に訴えかけるような要素が強調されるわけであるが、こうした要素は従来の社会ではサーカスのような道化芸が担っていたものだ、とベンヤミンはいう。サーカスの起源は中世のカーニバルにあるといわれるが、カーニバルは民衆の無意識的な願望を開放するような作用を持っていた。こうした解放作用が、カーニバルを通じて映画にも流れ込んでいる、というわけである。

「ディズニーの映画やアメリカのグロテスク映画は、無意識のものを爆発するという精神療法的な効果を持っている。サーカスなどでの奇矯な道化芸は、いわばこういった映画の先行者だった。映画が成立させた遊戯空間のなかにも、そういう道化芸がまず最初に住みついて、試験的な入居者の役割を果している」(同上)

このように映画は、大衆の無意識の願望に訴えかけることを通じて、大衆をある目的に向けて動員する働きを持つようになる。

「芸術が諸課題のうちでもっとも困難で重要なものに立ち向かうのは、芸術が大衆を動員しうるところにおいて、ということになる。現在、その場は映画だ」(同上)

従来の芸術には、こうした大衆の動員作用といったものは認められなかった。たしかに芸術の礼拝作用には、共同体のメンバーを共通の目的に向けて組織化するような作用は含まれているが、それはあくまでも宗教的な儀礼の一環としてだ。大衆を世俗的な目的に向けて動員する作用は、映画以外にはない。

そして、この映画の持つ動員作用に注目したものがいる。ファシストたちだ。

「ファシズムは、所有関係を保守しつつ、ある種の表現をさせようとするわけだ。理の当然として、ファシズムは政治生活の耽美主義に行き着く。ダヌンツィオとともにデカダンスが、マリネッティとともに未来主義が、そしてヒトラーとともにシュヴァービング<ミュンヘンの芸術家居住区>の伝統が、政治のなかにはいりこんでいった。
「政治の耽美主義をめざすあらゆる努力は、一点において頂点に達する。この一点が戦争である。戦争が、そして戦争だけが、在来の所有関係を保存しつつ、最大規模の大衆運動にひとつの目標を与えることができる」(同上)

ファシストたちは、所有関係をそのままにして大衆を共通目的に向けて大規模に動員する。その目的のうちで最大のものは戦争である。戦争はファシズムの本質的な要素である。それ故、ファシストとその同盟者であるダヌンツィオやマリネッティらは、戦争を賛美してやまない。その賛美の仕方はあまりにも明快で、あっけらかんとしているので、弁証法的な思想家が、つまりマルクス主義者としてのベンヤミンらが、正面から受けて立つに値する、とベンヤミンはいうのである。

「『芸術ヨ生マレヨ~世界ハ亡ブトモ』とファシズムはいい、マリネッティが信条とするような技術によって変えられた知覚を、戦争によって芸術的に満足させるつもりでいる。これは明らかに、芸術のための芸術の完成である・・・ファシズムの推進する政治の耽美主義は、そういうところまで来ているのだ。コミュミズムはこれにたいして、芸術の政治化をもって答えるだろう」(同上)

マリネッティらの戦争賛美にたいして、それを受けて立つ弁証法的な思想家、つまりコミュニストたちは、映画を通じて大衆を開放するように努めるだろう。何故なら映画には、大衆の潜在的な願望に訴えかけ、それを開放する作用があるはずだからだ。そうした解放に向けての動きをベンヤミンは、芸術の政治化といっているわけである。

ベンヤミンがこのようにいうのには、時代の背景がある。ベンヤミンがこの論文を書いたのは1935年。ドイツではすでにナチスが権力を掌握して、世界戦争に向けて驀進していた。ナチスが権力を握ったのは、大衆の動員に成功したからであるが、それには映画の利用が大いに貢献した。映画には、反動的な目的に奉仕する側面と進歩的な目的に奉仕する面と、二つの面があるのだ。どちらの面を強く働かせるかは、映画を利用する者の姿勢にかかっている。ベンヤミンはどうもそのように考えて、映画の解放作用に期待していたフシがあるようなのだ。


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