パリの屋根の下(Sous les toits de Paris):ルネ・クレール

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ルネ・クレール(René Clair)は、サイレント時代からトーキー映画確立期にかけてのフランス映画を代表する映画作家であり、世界の映画史にも巨大な足跡を残した。技術的には、エイゼンシュテインと並んで、モンタージュ技法の確立に寄与したことで知られ、また、内容的には、鋭い文明批評やヒトラーの専制政治を批判したことでも知られる。「自由を我らに」は、現代の機械文明を痛烈に批判したものとして、チャップリンの「モダン・タイムズ」に影響を与えたと言われ、また、「最後の億万長者」は、ヒトラーの独裁ぶりをいち早く映画で皮肉ったものとして、同じくチャップリンの「独裁者」に影響を与えたといわれる。

クレールのサイレント作品については、筆者は見る機会を得なかったが、映画評論家たちによると、物語性ではなく、人間の身体演技を強調したものだったようだ。つまり、映画のサイレント時代に流行していたバレーやボードビル、さらには伝統的なサーカスの演技を映画に取り入れ、動きのあるリズミカルな画面作りをしていたという。その点でクレールは、ヨーロッパの祝祭的な伝統の流れのなかにある作家だったといえるかもしれない。

そのクレールが1930年に作った「パリの屋根の下(Sous les toits de Paris)」は、フランスにおけるトーキー映画の実質的に最初の作品とされる。実質的にというのは、これ以前にもトーキー映画が作られなかったわけではなかったが、それらはみな芸術的な価値に欠けていたため、この映画が、映画芸術としての価値を人々に認めさせた最初のトーキー作品だったという意味である。

この映画も、サイレント時代のクレールの作品同様、人間の身体演技を強調した作品である。筋書きはごく単純で、映画の進行にとって必要最小限の役割しか果たしていない。そのかわりに、歌や踊りや人間相互の身体的な関わり合いといったものが強調されている。それ故、観客はバレーやレビューといった音楽と踊りをないまぜにした身体芸術を見ている感じにさせられる。

題名にあるとおり、パリの街が舞台である。クレールはこの映画のために、パリの街の一角を再現したセットを用意し、そのセットを活用して映画を展開したという。それはよくできたセットで、本物とすこしも違わない迫力がある。先日見た(マリオン・コティヤール主演の)エディット・ピアフの伝記映画でも、パリの街角が出てきたが、その眺めがこの映画の中のパリの街角に似通っていた。クレールのこのセットは、その後のフランス映画における、セット作りの見本になったのかもしれない。

物語は(そんなものが指摘できるとして)、ひとりのルーマニア女性をめぐり、男たちが繰り広げるドタバタ喜劇のようなものである。その女性はポーラ(Pola Illery)といって、始めは街のヤクザ者の情婦であったが、この映画の主人公アルベール(Albert Préjean)と恋仲になり、ついでアルベールがつまらぬことから留置場に放り込まれている間に、アルベールの親友の男とくっついてしまう、という、ちょっとだらしのない女なのである。その女をめぐって、男どもが張り合うという筋書きだから、馬鹿馬鹿しい話だといえなくもない。だから、この映画には、物語の面でなにかを求めてはいけない。求めるべきなのは、画面狭しと展開される人々の身体演技だというわけであろう。

身体演技という点では、クレールはサイレント映画において、その極限にまで到達したといわれる。クレールがこの映画の中で追及したのは、身体演技とトーキーの音とをどのように噛みあわせるかということだった。

まず、この映画の中でクレールは、俳優たちに必要以上にしゃべらせない。というか、俳優は無言で身体演技をするのが基本で、仕方なく言葉を発しなければならない時にだけ、それもできるだけ短く言葉を発するのである。そのかわりに、俳優たちはいつも歌っている。だいたい主人公の一人アルベールは、日本で言えば流しの歌手のような男で、歌を歌っているのが商売なのだ。そのアルベールにつられるように、登場する人間たちは、みなそれぞれ楽しそうに歌う。だからこれは、ミュージカル映画かと言えば、そうではない。普通の映画なのだが、歌を歌うシーンがめたらやたらに多い映画なのである。

また、トーキーといえば、普通は、人間の動作と声なり音なりが同時並行して結びつくものだが、この映画の中では、人間の動作と音声とは、それぞれ独立性をもっているというかのように、かならずしも同時並行的には結びついていない。たとえば、アルベールがヤクザ者と喧嘩するシーンでは、喧嘩する男たちの身体的な動作が、傍らを通り過ぎていく列車の音によって伴奏される。また、バーの内部で話し合っている人間たちの声が、扉があいているときにだけ聞こえてきて、扉が閉まった途端に聞こえなくなる、といった具合に、人間の動作と音とは、一応別個のものとして処理されている。この辺は、映画史上でも、あまり例のない演出方法なのではないか。

この映画のヒロインであるポーラは、ルーマニアからやってきたということになっているが、観客にはそのことが唐突に知らされる。歌ばかり歌っていて、ほとんど言葉が語られることがない前半のところで、アルベールとポーラが親しく語り始める場面があるのだが、その場面で、あたかも観客も既に知っていることを前提にしているかのように、ポーラがルーマニア人であることについての言及があるのだ。

ともあれ、この映画は、肩の凝らない身体演技が中心で、しかも大部分がサイレント時代と同じような作り方をしているので、普通のトーキー映画とは、大分趣を異にしている。普通のトーキー映画を基準にしたら、技術的には未熟なところも多いと言えないことはないが、そうした色眼鏡を外してみれば、現代の観客にもそれなりに楽しめる映画である。







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