2014年9月アーカイブ

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九月二十日(土)晴。六時起床。一浴して後朝餉を喫し九時に出発する。バスは大潟の田圃地帯を横切り十時半ごろ五能線の能代駅に到着した。ここから電車に乗って日本海の景色を眺めながら十二湖まで行こうというわけである。筆者は十年余り前に白神山地を訪ねたことがあるが、その折には秋田から直通の特別列車に乗って十二湖まで行ったものだった。今回はローカル線の車両でのんびり行くわけである。

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(伴大納言絵詞上巻、縦31.5cm)

「伴大納言絵詞」は「信貴山縁起絵巻」よりやや遅れて、12世紀後半に作られたものと思われる。作者は後白河法皇に従属していた宮廷絵師常盤光長と考えられる。おそらく、後白河法皇の命をうけて作成したのであろう。後白河法皇は、梁塵秘抄を編集したことから知られるように、新しい美意識に敏感な人であり、そうした美意識がこの絵巻物にも反映されていると考えることができる。写実的・即物的な描き方は、従来の貴族的な美意識とは大きく異なっており、時代の変化を伺わせるのだが、そうした変化の象徴として、後白河法皇を捉えることができるであろう。

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東北地方北部にある男鹿、津軽、下北の各半島巡りの旅をしないかとYから電話がかかってきたのは八月の中ごろのことだった。九月の下旬に、Iも含め三人で、旅行会社のツアーに便乗して行こうという内容だった。その頃なら、他に日程も詰まっていなかったし、また下北半島にはいづれ行ってみたいと思っていたので、話に乗ることにした。そんなわけで、九月の十九日から二十二日にかけて、三泊四日のバスツアーに加わった次第だ。その折の見聞を、日記風にまとめて紹介したいと思う。題して「陸奥小紀行」とした。

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題名にある「セネキオ(Senecio)」とは、キク科の植物「サワギク」のこと。天使ではないが、その子どもっぽい顔が、天使の顔を思わせる。これは、「新しい天使」を描いた翌年(1922年)、クレーがバウハウスにあって、もっとも創造力に溢れていた時代の作品だ。

大相撲の九月場所は、久しぶりにテレビに釘付けになった。モンスターと呼ばれる新入幕の力士が、三役や横綱を次々とやぶり、あわや100年ぶりの新入幕力士の優勝かと騒がれる事態にまで発展したからだ。話題の主人公はモンゴル出身の逸の城。初土俵からまだ五場所目と言うのにこの快進撃だ。まさにモンスターというに相応しい。

白楽天の七言律詩「正月三日間行」(壺齋散人注)

  黄鸝巷口鶯初語   黄鸝巷口  鶯初めて語り
  烏鵲河頭氷欲銷   烏鵲河頭  氷銷(き)えんと欲す
  緑浪東西南北水   緑浪 東西南北の水
  紅欄三百九十橋   紅欄 三百九十橋
  鴛鴦蕩漾双双翅   鴛鴦 蕩漾す 双双の翅
  楊柳交加万万条   楊柳  交加す 万万の条
  借問春風来早晩   借問す 春風の来たること早晩
  只従前日到今朝   只だ前日より今朝に到る

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ジャック・フェデー(Jacques Feyder)の「ミモザ館(Pension Mimosas)」は評価が極端に別れる作品だ。一方では、人間の心理的葛藤を描いたリアリズムの傑作だとする評価があり、他方では、トリュフォーのように、フランス映画の最も忌むべき系譜の手本のような作品だとする意見もある。どちらにせよ、フランス映画を語る際には、避けて済ませられない作品だと思う。

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(信貴山縁起絵巻:信貴山縁起絵巻3:尼公の巻、31.7×1424.1cm)

「尼公の巻」は、幼い頃に命蓮と別れた姉、信濃の尼公が、生きているうちに弟と会いたいと願って処方を訪ね歩くという話である。訪ねあぐねて、東大寺の大仏に祈ると、夢告をさずかり、信貴山の方向へ行けと指示される。そのとおりに信貴山へ行くと、念願がかなって姉弟が再会できるというものである。

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クレーの「新しい天使(Angelus novus)」と題した作品は、1920年に創作したものである。この時期は、クレーにとってひとつの転換期にあたっており、そうした時期の抱負のようなものが、この絵の題名にも表れているようである。

明日を指す言葉を、「あす」とか「あした」とかいう。どちらも、古い言葉で、「あさ」と同源の言葉と思われる。もともとは、夜が明けた時点を指して言った。

ベンヤミンは、同時代の芸術運動に深い関心をもっていた。なかでも彼が大きな関心を注いだのは、未来派とシュルレアリズムだった。だがその関心のベクトルは正反対を向いていた。前者はいわばマイナスの方向を、後者はプラスの方向を。ベンヤミンにとって芸術とは、社会の変革と大いにかかわりを持つはずのものとして意識されていたのだが、前者は芸術のための芸術を標榜することによって、大衆から社会変革のエネルギーを抜き取る効果を発揮していた。それにたいして後者は、芸術を通じて社会の変革を目指そうとしていた。そのようにベンヤミンは、受け取ったのだった。

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筆者は、9月19日から22日までの四日間、東北地方北部を旅してきたが、その間に起きた最も括目すべき出来事は、スコットランドのイギリスからの分離独立の是非を問う住民投票だった。18日に行われたこの投票は、日本時間の19日に結果が出たが、それは引き続きスコットランドが連合王国の一員に留まるというものだった。

白楽天の七言絶句「湖中に宿す」(壺齋散人注)

  水天向晩碧沈沈   水天 晩に向ひて碧沈沈
  樹影霞光重畳深   樹影 霞光重畳として深し
  浸月冷波千頃練   月を浸す冷波は千頃の練
  苞霜新橘万株金   霜を苞む新橘は万株の金
  幸無案牘何妨酔   幸に案牘無し 何ぞ酔ふを妨げん
  縦有笙歌不廃吟   縦(たとい)笙歌有るも 吟ずるを廃せず
  十隻画船何処宿   十隻の画船 何れの処にか宿する
  洞庭山脚太湖心   洞庭の山脚 太湖の心

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ジャック・フェデー(Jacques Feyder)は、フランス映画の黄金時代を築いた巨匠の一人であるが、フランス人ではない。ベルギーに生まれてフランスに帰化した人物で、フランス映画と称される作品は、実質的には三本しか作っていない。しかし、そのわずか三本の映画が、その後のフランス映画に決定的な影響を与えたのであった。その影響は、多くの映画評論家によって、肯定的に評価されたが、中には否定的な評価をする者もある。ヌーヴェル・ヴァーグの旗手といわれたフランソワ・トリュフォーはその最たるもので、フェデーの映画は、「心理的リアリズム」というけちな傾向のために、フランス映画をつまらなくした元凶だといった。

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(信貴山延喜絵巻:延喜加持の巻、31.7×1290.8cm、朝護孫子寺)

「延喜加持の巻」は、命蓮が醍醐天皇の病気を治す話である。重病になった醍醐天皇に対して、なすすべのなくなった宮中が、験者として名高い命蓮に勅旨を遣わして助力を請う。すると命蓮は、山上から内裏に護法童子を遣わし、たちまちにして天皇の病気を治す。よろこんだ宮中が、再び勅旨を遣わして、褒美を尋ねたが、命蓮はとりあわなかった、という話である。

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「哀れな天使(armer Engel)」と題されたこの絵は、紙をベースにして、水彩絵の具とテンペラ絵の具を組み合わせて描いたもの、絵の具の使い方を工夫することで、ぼかしや浸透など独特の効果を出している。

超小型の矮小銀河の中心に超大質量ブラックホールが存在することを、ハッブル宇宙望遠鏡を用いた観測で発見したとの研究結果論文が科学誌ネーチャーに載ったそうだ。この論文によれば、この超大質量ブラックホールは、地球から約5000万光年の距離にある矮小銀河「M60-UCD1」の中心部にある。

白楽天は、二年間の杭州生活の後、半年の洛陽勤務をはさんで、宝暦元年(825、54歳)の春に蘇州刺史に転じた。蘇州は江南の大都市であり、白楽天はめずらしく多忙を極めたらしい。元真への手紙のなかで「清旦に方に案を堆くす、黄昏に始めて公より退く」と書いているほどである。

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ジャン・ルノワール(Jean Renoir)はナチス占領下のフランスを逃れてアメリカに渡り、戦中から戦後にかけてハリウッド映画を作った。そしてフランスに戻る前にインドに立ち寄り、ガンジス川を舞台にした抒情的な映画を作った。「河(The River)」である。プロデューサーはイギリス人で、言葉も英語(かなりブロークンな)だが、一応インド映画ということになっているようだ。フランス人のルノワールが、このような映画を作ったわけは、ルーマー・ゴッデンによる原作のリリシズムに感銘をうけたからだという。

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(信貴山縁起絵巻:山崎長者の巻1、31.7×879.9cm、奈良・朝護孫子寺)

信貴山縁起絵巻は、12世紀の半ばころに成立したわが国最古の縁起絵巻である。「山崎長者の巻」、「延喜加持の巻」、「尼公の巻」の三巻からなっており、大和と和泉の境にある信貴山朝護孫子寺にまつわる霊験譚を絵巻物にしたものである。作者は鳥羽僧正と伝えられてきたが、確証はない。ただ、信貴山の現地で描かれたのではなく、都で描かれたことが判明している。当時の宮廷絵師が描いたのだろうと推測される。

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これは、星の王子様ならぬ「星の天使(Engel vom Stern)」を描いたもの。天子の頭上に輝いている星が、天使がそこからやってきた星なのだろう。その星に向かって天子が顔を上げているのは、どういう意味なのだろう。そのほかの点では、天使は翼を広げたまま、二本の脚で歩いている。

フランツ・カフカが生前に発表した作品は「変身」など少数の短編小説だけだったが、それでも一部の人々の間に熱狂的な支持者を持っていた。彼の死後、いくつかの長編小説を始めとした遺稿が、自分の死後廃棄して欲しいというカフカ自身の遺言に逆らって公表されると、俄然広範囲にわたる反響を引き起こした。それは、カフカ現象ともいうべきもので、カフカは一躍、世紀の大作家の地位に祭り上げられた。しかし、カフカの小説の世界は、あらゆる基準からして、従来の文学の枠から大きく外れていたので、これをどう評価していいのか、尊大な批評家でさえも戸惑うほどであった。そんな戸惑いが交叉するさなか、ベンヤミンは一篇のカフカ論を書いて、それをユダヤ系の雑誌「ユダヤ展望」に発表した(全四章のうち、第一章と第三章のみだったが)。時にカフカの死後10年経った1934年のことであった。

ゴッホの「ひまわり」の鮮やかな黄色が色あせたり、ムンクの「さけび」の中のアプリコット色がアイヴォリー・ホワイトに変色するなど、名画が色あせる現象が生じているという。専門家の分析によれば、これは当時流通し始めていたカドミウム・イエローが原因だという。この顔料は空気に触れたり紫外線があたったりすると変色するのだという。ゴッホやムンク以外にも、カドミウム・イエローを使った画家は多くいると思われるから、今後近代名画の変色問題が大規模に生じるかもしれない。

白楽天の七言律詩「春湖上に題す」(壺齋散人注)

  湖上春來似畫圖  湖上に春來りて畫圖に似たり
  亂峯圍繞水平舖  亂峯圍繞して水平らかに舖(し)く
  松排山面千重翠  松は山面に排して千重の翠
  月點波心一顆珠  月は波心に點じて一顆の珠
  碧毯線頭抽早稻  碧毯の線頭 早稻を抽き
  青羅裙帶展新蒲  青羅の裙帶 新蒲を展ぶ
  未能抛得杭州去  未だ杭州を抛ち得て去る能はず
  一半勾留是此湖  一半の勾留 是れ此の湖

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ジャン・ルノワール(Jean Renoir)の映画「ゲームの規則(La règle du jeu)」が公開されたのは1939年のことである。この年には第二次世界大戦が勃発した。映画は、そのことにもわざわざ言及している。冒頭の部分で、「この作品は第二次世界大戦の前夜が舞台であるが~当時の風俗を忠実に描写したものではない、人物はすべて架空である」と断った上で、ボーマルシェの「フィガロの結婚」の一節を引用しているのである。その一節とは、恋心の移ろいやすさを歌ったものなのだった。

毎年敬老の日には、日本の長寿人口の動向が政府によって発表されるが、この日(9月15日)に発表されたデータでも、日本があいかわらず世界一の長寿国であることが裏付けられた。それによれば、100歳以上のお年寄りの人口が、58820人に達したそうだ。これは人口10万人について46.2人の割合だ。2010年におけるアメリカのそれが17.3人だったのと比較しても、日本がいかに長寿国であるか、実感としてわかろうというものだ。

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(全十面、各面約190×140cm、国立東京博物館法隆寺献納本、11世紀)

やまと絵を飾るのは説話画や縁起絵であるが、そのルーツともいえるのが聖徳太子絵伝である。もっとも古いもとしては、宝亀二年(771)四天王寺の絵堂に聖徳太子絵伝障子絵が存在していたことが知られるが、現存する最も古いものは、法隆寺絵堂に伝わってきたものである。これは現在、法隆寺献納本として、国立東京美術館に保存されている。

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晩年のクレーの天使の絵の中で「忘れっぽい天使」とならんで人気のあるのが、この「鈴をつけた天使(Schellen-Engel)」という絵だ。題名にあるとおり、お尻のところに小さな鈴をぶら下げている。

江州司馬に左遷された白楽天は、忠州刺史を経て元和十五年(820)中央に召還されたが、その翌々年の長慶二年(822、51歳)には再び地方に出される。今度は杭州刺史としてである。白楽天自ら地方転出を望み出たとも言われるが、実質は左遷であったらしい。あいかわらず、自分の立場をわきまえず、政府批判をしたことが原因だったらしい。

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ジャン・ルノワール(Jean Renoir)の作品「大いなる幻影(La grande illusion)」は、第二次世界大戦終了以前におけるフランス映画の最高傑作と言われてきた。ということは、この時期における世界映画の最高傑作の一つであるともいえるわけだ。なにしろフランス映画は、サイレント映画時代からトーキーの時代を通じて、世界で最も映画の盛んだった国であったわけだから。

先日、ドイツが46年ぶりに無借金財政に戻ったということが話題になった。いわゆる経済アナリストの中には、これを日本と比較して、何故ドイツではできたことが日本では難しいのか、といった議論をする者もいた。そんなことは、別に経済アナリストたちの世話にならなくとも、わかりきったことだろう。ドイツには、財政が楽になるそれなりの事情が、日本には財政が苦しくなるそれなりの事情があるのだ。

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(東寺山水屏風、各扇146.4×42.7cm、11世紀)

真言密教では、灌頂という儀式を行う際に、山水屏風を立てて場を設定した。その屏風の一部が東寺、神護寺、醍醐寺など密教寺院に残っている。当時民間で愛用された図屏風が残っていない中で、これらの山水屏風は、屏風について考える貴重な手がかりになっている。

佐高信と西部邁の対談集「思想放談」を読んだ。この二人は、それぞれ右と左のチャンピオンを自認しており、水と油のような間柄と思えるのだが、何故か気が合うらしく、この本以外にも対談集を出しているし、個人的にも気を許しあった間柄らしい。何故そうなったのか。その手がかりが「トクヴィル」を語った部分に出てくる。佐高はある文章の中で西部邁を批判した時に、西部から「便所の落書きみたいな文章を書くな」と怒られたことがあったが、その時に逆切れするどころか、うまいことを言うもんだと感心してしまい、それ以来西部を高く評価するようになったのだという。

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天使には性の区別はないはずなのに、クレーは女の天使としての「ミス天使(Miss-engel)」を描いた。この絵の天使が女性であることは、胸のところに女性のおっぱいのようなものがあるところからわかる。おっぱいそのものは男にもついているけど、このようにふくらみのあるおっぱいは、女性だけのものだ。

加藤周一も鷗外と漱石とを日本の近代文学の偉大な先駆者として位置付けているようであるが、どちらかというと鷗外の方を高く評価しているようだ。鴎外についてより長い文章を書いているという外的な理由からだけではない。二人の人間としてのあり方において、鴎外の方をより大きな人間と捉えているフシがある。

ハンナ・アーレントはベンヤミンについて、「生まれながらの文章家であったが、一番やりたがっていたことは完全に引用文だけからなる作品を作ることであった」と書いている(「暗い時代の人々~ベンヤミン」阿部斉訳)。彼の「パサージュ論」は、この願望に対して、完全にではないにしても、ほぼ応えている作品ではないかと思う。一瞥してわかるように、この作品は通常の論文のように、一本筋のとおったストーリーを展開しているのではなく、他人の書いた文章の引用で大部分が形成されているのである。

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日本にもネオナチが存在する、ということを筆者は、英紙ガーディアンのウェブ上の記事で知った。この記事は、安倍晋三首相のお友達として知られる女性閣僚(某総務大臣)と自民党の女性幹部(某政調会長)とが、日本のネオナチの幹部とツーショット写真をとっていたことを紹介しているのだが、その中で日本のネオナチの特徴を簡単に説明している。

白楽天の七言律詩「春江」(壺齋散人注)

  炎涼昏曉苦推遷  炎涼 昏曉 苦(はなは)だ推遷し
  不覺忠州已二年  覺えず 忠州 已に二年
  閉閣只聽朝暮鼓  閣を閉じて只だ聽く 朝暮の鼓
  上樓空望往來船  樓に上って空しく望む 往來の船
  鶯聲誘引來花下  鶯聲に誘引せられて花下に來り
  草色句留坐水邊  草色に句留せられて水邊に坐す
  唯有春江看未厭  唯だ春江の看れども未だ厭かざる有り
  縈砂繞石淥潺湲  砂を縈(めぐ)り石を繞って淥潺湲たり

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ジャン・ルノワール(Jean Renoir)は、フランスではルネ・クレールと並ぶ偉大な映画監督として敬愛されているが、日本では印象派の有名な画家オーギュスト・ルノワールの息子として、また「大いなる幻影」の監督として知られてきた。「どん底(Les bas-fonds)」は、その「大いなる幻影」の直前に作った作品である。

佐高信の政経外科シリーズ第16段「安倍政権10の大罪」を読んだ。安倍政権を「タカ派」ならぬ「バカ派」と断ずる佐高が、その数ある罪の中から10の大罪をピックアップし、それらがいかに犯罪的で反国民なものであるかを力説したものだ。

日本の絵画の伝統は、古墳時代以前に遡れないわけではないが、本格的に展開するのは、飛鳥時代以降のことである。大陸(唐)の圧倒的な影響を受けながら描かれたそれらの絵は、後に唐絵と呼ばれて、和風の絵であるやまと絵と対比されるようになるが、それはやまと絵が成立して、対比すべきライバルが現れたからであり、やまと絵成立以前には、絵と言えば唐絵のことをさしていた。唐絵というのは、中国の風俗や景物をそのまま描いたもので、たとえば聖徳太子の像や正倉院宝物の樹下美人図のようなものである。聖徳太子は、いうまでもなく日本人であるにかかわらず、あたかも中国人(唐人)であるかのような格好で描かれている。これらの絵を描いた画師は、大陸から来た帰化人とその末裔であろうと推測されている。

先日、佐高信と寺島実郎の対談「この国はどこで間違えたか」を取り上げた際に、辛口の評を投げてしまったが、この対談には、耳を傾けるべきところもある。筆者が特に裨益されたのは、イギリスと日本の比較文化論だ。

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馬の形になった天使の上に二人の天使が乗り、その上にさらに一人の天使が乗っている。全体として三角形をなしているその形が岩に似ているというので、天使の岩(der Fels der Engel)と題したのだろうか。

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ルネ・クレール(René Clair)の真骨頂は、軽快な音楽を伴ったオペレッタ風のコメディにあるといってもよいが、「夜毎の美女(Les belles de nuit)」は、そんなクレールにとっての集大成のような映画だといえる。とにかく、理屈抜きに楽しめる。テーマが夢であるから、現実の制約など気にする必要がないし、思う存分空想を逞しくすることができる。実際この映画は、殆どクレール一人で手掛けたと言ってもよく、彼一流のコメディ精神が遺憾なく発揮されている。こんな映画は、日本人にはとても作れないだろうし、フランス人だって、クレール以外に作れる者はない。

ベンヤミンが「歴史の概念について」の後半部分で展開しているのは、彼独自の歴史認識のあり方についてだ。彼はそれを「史的(歴史的)唯物論」と表現しているが、それがマルクス主義の主流の考え方と大きく異なっているのは、前稿で述べたとおりだ。史的唯物論の主流の解釈では、歴史というものは、基本的にはある目的に向かって直線的に進歩していく過程として捉えられている。しかしベンヤミンは、そうした歴史のとらえ方を、悪しき「歴史主義」だとして否定する。彼にとって真の史的唯物論とは、時間の中に断絶を見る見方である。時間の中に断絶を見ることによって、過去を現在への単なる過渡的なものとして抽象化してしまうのでなく、かけがいのない出来事の集積として、この「いま」と直接つながりあうようなものとして捉える、そうした見方である。悪しき歴史主義者が、「過去」という抽象的な言葉によって一般化してしまうところに、ベンヤミンは具体的で生き生きとしたひとときを見るわけである。

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(有志八幡講十八箇院の阿弥陀と聖衆来迎<中幅>、絹・彩色、210.8×210.6cm)

阿弥陀来迎図は、曼荼羅図同様、絹布の上に描かれ、掛け軸の形にされるのがふつうだった。上の図はもと比叡山横川の安楽谷にあったが、近世になって高野山に移った。群像は阿弥陀如来を含めてすべて坐像で、横に広がるように配置されており、動きは感じさせない。中央の阿弥陀如来は来迎院を結び、その前に観音・勢至の両菩薩が座っている。

白楽天の七言律詩「重ねて題す」(壺齋散人注)

  日高睡足猶慵起  日高く睡り足りて猶起くるに慵し、
  小閣重衾不怕寒  小閣衾を重ねて寒を怕れず。
  遺愛寺鐘欹枕聽  遺愛寺の鐘は枕を欹て聽き、
  香爐峰雪撥簾看  香爐峰の雪は簾を撥げて看る。
  匡廬便是逃名地  匡廬は便ち是れ名を逃るるの地、
  司馬仍為送老官  司馬は仍ほ老を送るの官為たり。
  心泰身寧是歸處  心泰く身寧きは是れ歸する處、
  故鄉何獨在長安  故鄉何ぞ獨り長安に在るのみならんや

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宇宙は無数の銀河からなっている。しかして、個別の銀河が一定数集まって銀河団を形成し、その銀河団が更に集まって超銀河団を形成する。超銀河団の内部では、銀河はある程度密集しているのに対して、超銀河団と超銀河団の間の空間は空虚な部分になっている。重力の関係でそうなると考えられている。

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この絵「用心深い天使(wachsamer Engel)」の wachsamer という言葉には、用心深い、用心しているという意味や、見張っている、監視している、という意味もある。どちらにしても、何かに対して身構えているわけである。

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(平等院鳳凰堂、上品下生扉絵、77×58cm)

平惟茂の臨終にあたって、源信が自ら赴くことができず、身代わりに「極楽迎接曼荼羅」という図を贈って、これを見て往生せよといった。歴史上は、これが極楽往生図あるいは阿弥陀来迎図の走りといわれる。阿弥陀来迎図は、庶民が極楽に往生するための切札として非常な信仰を集め、平安時代の末から鎌倉時代に掛けて沢山作られた。

加藤周一が「物と人間と社会」という題名で永井荷風論を展開したのは、雑誌「世界」の1960年6月号から翌年1月号にかけての紙面においてであった。時あたかも日米安保条約改定問題で日本中が政治に熱狂していた時期である。その時期に政治とは最も縁の遠いと思われていた作家について、これは最も政治的な知識人と思われていた加藤周一が論じたわけであるから、そこにはある種のアナクロニズムを感じさせるところがあった。しかしそうしたアナクロニズムは、荷風という作家自身が漂わせているものでもある。荷風を論じる者はしたがって、いつの時代に論じても、つねにアナクロニズムに陥る危険を免れないわけである。

佐高信と寺島実郎の対談「この国はどこで間違えたのか」を読んだ。佐高はほんの最近読み始めたばかりだが、寺島の方は雑誌「世界」に連載中の文章など、すでにいくつか読み進んできた。佐高は自称他称とも左翼であり、旧社会党や現社民党を支持するなど一貫して左向きの姿勢をとってきたようだが、寺島の方はどちらかと言えば、中道保守的なスタンスを取ってきた。ところが、最近はそんな寺島でさえ、世間では左向きの論客として見られているという。それは、世間全体が大きく右に傾いたせいで、中道が相対的に左になったせいだ、と寺島本人が語っているとおり、いまの日本は右寄りのタカの天国になっている(「いまの日本はタカ派ばかり」と佐高がいうとおりだ)。

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ルネ・クレール(René Clair)は、ナチス占領下のフランスを避けてアメリカに亡命したが、第二次大戦が終了するとフランスへ戻り、映画作りを再開した。「悪魔の美しさ(La Beauté du diable)」は、「沈黙は金」につづき、戦後二作目の映画である。

インドのモディ首相が初の外遊先として日本を選んだことに対して、安倍首相が最大限の礼儀を尽くして「おもてなし」をした。京都の観光旅行にお付き合いをしたり、一緒に夕飯を食ったりもした。その様子をテレビで見ると、まるでハネムーンのようである。ある意味、オバマの時以上のおもてなしぶりだ。

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(臼杵石仏の阿弥陀三尊像<ホキ石仏>、石造・彩色、像高中尊279.0cm)

大分県の臼杵市にある石仏群は臼杵石仏と呼ばれる。四か所に別れて所在し、併せて六十躯に上る。いずれも、丘陵の斜面に露出した阿蘇溶岩の凝結層に刻まれているところから、磨崖仏と称されている。その大半は藤原時代に製作されたものと考えられている。

イスラエルのネタニアフ政権が、パレスティナのウェスト・バンクの土地約1000エーカーを、イスラエルに併合すると発表した。ネタニアフ政権によれば、これは先日起きたイスラエル人少年三人の殺害行為に対する懲罰だということのようだが、侵略行為であることは明らかだ。ネタニアフ政権は、パレスティナのアッバース政権との間で和平についての交渉をしてきた経緯が、曲がりなりにもあったわけだが、これで和平交渉は行き詰まり、両国関係が悪化することは避けられない。

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この絵の中の天使が「希望に満ちた天使(Engel voller hoffnung)」と呼ばれたのは、羽根を持ち上げて、顔も空の方を見上げているからだろうか。たしかに、忘れっぽい天使が、うつむいて、とぼけた表情を見せているのに比べれば、この天使の顔は、はればれとはいえないまでも、きりっとしているように見える。

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