大いなる幻影(La grande illusion):ジャン・ルノワールの反戦映画

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ジャン・ルノワール(Jean Renoir)の作品「大いなる幻影(La grande illusion)」は、第二次世界大戦終了以前におけるフランス映画の最高傑作と言われてきた。ということは、この時期における世界映画の最高傑作の一つであるともいえるわけだ。なにしろフランス映画は、サイレント映画時代からトーキーの時代を通じて、世界で最も映画の盛んだった国であったわけだから。

実際この映画は、公開前後から世界中に大きな反響を巻き起こした。英米ではこの映画は非常に好意的に迎えられ、アメリカのルーズヴェルト大統領は、「世界中の民主主義者は見るべきだ」と叫んだ。一方ドイツやイタリア、そして日本などの戦争好きの諸国では、この映画は反戦感情を煽るとして、上映禁止処分に付された。それほど、政治的に大きな物議をかもした。たかが映画でこんな物議をかもしたものは、他にはないのではないか。

というわけで、この映画は、世界の映画史上、反戦映画の傑作ということになっている。その反戦的要素が、英米では好意的に迎えられ、日独伊のいわゆる枢軸国では目の仇にされたわけであろう。当のフランスでは評価が分かれ、上演禁止を求める運動も起きたとされる。

この映画のどこが、それほどに大きな反響を生んだのだろうか。

それを考えるには、この映画が作られた時代背景を頭に入れておかねばならない。この映画が公開されたのは1937年のことである。その二年後の1939年には第二次世界大戦が始まっている。それ以前に、第一次世界大戦が終了してから、まだ20年ほどしかたっていない。この映画を作ったルノワールのフランスも、そのルノワールが映画の中で取り上げたドイツ人たちも、まだ第一次世界大戦の記憶を生々しく保存している一方、独仏の間で新しい戦争が始まるという予感を持っていた。そんな時代にあってこの映画は、フランス人とドイツ人との間の人間としての交流を描き、そうした人間関係をぶち壊しにする戦争というものを、不条理なものとして告発しているところがある。そこのところが、非常に政治的な反響を引き起こすことにつながったわけだ。

こういうと、この映画はもっぱら政治的な意図に基づいて作られた極めてイデオローギッシュな作品だと受け取られかねないが、この映画は決して、単なる政治的なプロパガンダ映画にとどまってはいない。そんなレベルにとどまっていたら、この作品が映画史上に残る傑作として評価されることはないだろう。

この映画では、人間というものを、あらゆる角度から描き出すことで、人間を一筋縄ではいかない複雑な存在として描き出している。その複雑さの中には、祖国に対する愛国的な感情もあれば、敵国の人間に対する人間としての感情もある。国籍を超えた男同士の友情もあれば、男女の性愛もある。人間というものは単なる政治的な動機だけで動いているわけでもなければ、個人的な感情のみに突き動かされているわけでもない。そうではなく、そうした様々な要素の複雑にからみあったものこそ人間というもののあり方なのだ、ということを、この映画は訴えている。その意味でこの映画は、戦争を描くことを通じて、人間の本源的なあり方を描いた作品だといってよい。

筆者なりに整理すると、映画の筋書きは大きく三つの部分からなる。第一部は、主人公であるフランスの二人の将校、ボアルデュー大尉(ピエール・フレネーPierre Fresnay)とマレシャル中尉(ジャン・ギャバン Jean Gabin)が、ドイツ軍の捕虜となり、そこでドイツ軍の将校ラウフェンシュタイン大尉(エーリッヒ・フォン・シュトロハイム Erich von Stroheim)と出会う。二人はすぐに別の捕虜収容所に移され、そこで大勢のフランス人捕虜とともに生活を共にし、脱走を図ったりもするが、やがて主人公の将校たちだけがスイス国境に近い別の収容所に移されることになる。

第二部は、ボアルデューとマレシャルがスイス国境に近い収容所に移され、そこの所長を務めていたラウフェンシュタインと再会する。ここで、ボアルデュー大尉はラウフェンシュタインとの人間同士としての友情を深めるのであるが、自分は犠牲になってマレシャル中尉達の脱走を手助けする。その挙句大尉は、ラウフェンシュタインの放った拳銃の弾丸によって命を落としてしまうのである。

第三部は、マレシャルと同僚のロザンタール中尉との逃避行が描かれる。この逃避行の最中、二人は仲違いをして別れそうにもなるが、なんとか助け合って逃れるうち、山中の一軒家に身を隠すことになる。そこにはエルザというドイツ人婦人と彼女の小さな娘が住んでいた。この母子に匿われているうちに、マレシャルとエルザとの間に愛が芽生える。しかし、マレシャルたちはドイツを逃れてなんとかスイスにたどり着き、そこからフランスに帰還しなければならない。エルザもそのことは理解している。こうしてマレシャルたちは、スイスを目指して出発するのだが、その際にマレシャルはエルザに向かって、戦争が終ってもし自分が生きていたら、あなたを迎えに来るといって、愛を告白するのだ。しかし、戦争が終って平和が来るかどうかは誰にもわからない。その意味でマレシャルの言葉は幻想をあらわしているのかもしれない。しかしそれは同じ幻想でも大いなる幻想、人間の思いがこもった幻想だ。

映画の最後のところで、二人はドイツ兵に発見されてあやうく銃殺されそうになる。しかし、ドイツ兵が銃を撃とうとした瞬間に二人は国境を超えるのだ。国境を超えた二人を、ドイツ兵は撃とうとしない。そんなドイツ兵が見守る中、二人は深い雪をかき分けながら進んでいくのである。

この映画の見どころは、それぞれの部分ごとに用意されている。第一部では、捕虜収容所におけるフランス兵捕虜とドイツ人兵士との交流だ。この収容所では、勿論敵味方の区別は厳格に守られているが、その一方で、両国の兵士たちの人間同士の交流と言うものも描かれている。たまたま戦争によって敵味方に分かれてはしまったけれど、人間としては同じなのだ、ということがこの場面ではしつこいほどに強調されている。

第二部ではボアルデュー大尉とラウフェンシュタインとの友情が描かれる。二人は、いまでは敵味方に分断されてしまっているが、そもそも祖国にあっては名門の家柄同志であるし、その意味では通じ合えるところが多い。しかし、そんな友情も、戦争の論理によって引き裂かれてしまう。それは悲しいことだ、というようなメッセージが、この部分では繰り返し発せられる。

第三部では、フランス男とドイツ女の愛がテーマになるわけだから、戦争がいかに人間を無残に引き裂くか、そこのところがストレートに伝わってくる。

こんな訳でこの映画は、微視的な人間関係を巨視的なスペクタクルを背景にして、丁寧に描き出している。その丁寧さがこの作品を、世界映画史上の傑作に仕立て上げているのだといえよう。

この映画の圧巻は、マレシャルがエルザに向かって、娘の眼の色をドイツ語で表現する場面だ。マレシャルが片言のドイツ語で、ブルーエ・アウゲンという。エルザがそれを訂正してブラウエ・アオゲンと言いなおす。この片言のドイツ語が、この二人の男女を強く結びつけるのだ。まさに、人間同士の平和で美しい関係とは男女の性愛から始まる、とでもいうかのように。







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