加藤周一の鷗外・漱石論

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加藤周一も鷗外と漱石とを日本の近代文学の偉大な先駆者として位置付けているようであるが、どちらかというと鷗外の方を高く評価しているようだ。鴎外についてより長い文章を書いているという外的な理由からだけではない。二人の人間としてのあり方において、鴎外の方をより大きな人間と捉えているフシがある。

加藤は、鴎外の傑作は晩年の史伝三部作であるとした。一方漱石の傑作は「明暗」だとする。史伝三部作は、所謂小説とはいえないし、文学作品だというにも抵抗があるかもしれない。ひとつ確かなことは、高い知性にして初めて書くことのできた作品であるということだ。文学とは知性の活動の一つといえるから、これは広い意味での文学作品ということはできる。しかしそう言いたくなければ言わないでもよい。とにかく偉大な知性が生み出した偉大な作品だという評価だけは覆らない。このように加藤は言って、鴎外の作品を狭い意味における文学の枠組に囚われずに、大きな意味での知性の産物としてとらえる。

ところが加藤が「明暗」を漱石の傑作と言う場合、それは漱石の書いた小説の中で最も優れた小説であるばかりではない、日本の近代文学にとっても、最初に書かれた最も本格的な小説であるという評価をしている。これは漱石でなければ書けなかった小説だ。何故なら一人漱石だけが欧米の小説の本質を理解していた。それは市民生活を舞台にした心理描写というもので、日本の自然主義文学とは似てもつかぬものだ。その似てもつかぬものを日本と言う文学的な土壌の上で開花せしめた。こういうわけで、加藤は漱石を本格的な小説家として捉えている。そこが鷗外を捉える視点とは異なっている。

鷗外は自分の知性を傾けて史伝三部作を書き上げた。一方小説家としての漱石は、小説の執筆に知性を働かせる必要はなかった。無論小説を書くのに聊かの知性は必要だろうが、知性がなければ小説が書けないものでもない。実際「明暗」という作品には、知性の働きは見当たらない。そこに見当たるのは漱石の実体験に支えられた厳しい自己認識と反省の態度だ、と加藤はいうのである。一般的には漱石の知性が溢れているとされる「猫」や「虞美人草」などは、加藤の目には読むに堪えない代物にうつるようだ。

つまり加藤は、鴎外を知性の人として位置付ける一方、漱石を反省の人として位置付けるのである。そして知性と反省とこの二つの能力のうち、加藤が尊重するのは知性の方だったというわけなのだろう。








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