地の果てを行く(La bandera):ジュリアン・デュヴィヴィエ

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ジュリアン・デュヴィヴィエ(Julien Duvivier)の1935年の映画「地の果てを行く(La bandera)」は、ジョゼフ・スタンバーグの「モロッコ」(1930年)、ジャック・フェデーの「外人部隊」に続き、モロッコのスペイン外人部隊を舞台にした作品である。モロッコの外人部隊というのは、ヨーロッパ中からわけありの人間たちが集まってきており、いわば人生の吹き溜まりと言うような印象があったのだろう。映画の舞台としては恰好ということで、何度も取り上げられたようである。映画の有力なジャンルのひとつになっていたわけだ。

この映画に出てくる男たちも、みなわけありの過去を持っている。主人公のピエール・ジリエト(ジャン・ギャバン Jean Gabin)は、パリのサン・ヴァンサン通りで殺人を犯し、官憲の追及を逃れるために、モロッコの外人部隊に流れてきたということになっている。住めば都とは言ったもので、ジリエトには親しい友人もでき、毎日をなんとかしのいでいけそうな気持になる。しかし、同僚の中にひとり不審な男リュカ(ロベール・ル・ヴィガン Robert Le Vigan)がいて、ジリエトはその男が気になってならない。もしかしたら自分の過去を知っているのかもしれない、そう思ったジリエトは、隊長に直訴して、リュカとは別々の、奥地の部隊への配属替えをしてもらう。

こうして奥地勤務となったジリエトは、現地の踊子アイシャ(アナベラ Annabella)と恋に陥る。二人は互いの血をすすりあって結婚し、仲間たちの祝福も受ける。ところが、そんなところへリュカが援軍の一員としてやってくる。リュカは実は、パリ警察の密偵で、ジリエトをつけまわしていたのである。

ジリエトはリュカを殺そうとも思うが、どうしても殺せない。そんなところへ、決死の任務への募集がある。更に内地に入った前線で、生きて帰れる見込みはほとんどないという。ジリエトはその任務に志願する。ところがリュカもまた志願するのだ。

こうして、ジリエトとリュカを含んだ部隊が、前線での厳しい状況に立たされる。敵との戦闘で、部隊のメンバーは次々と死に、隊長もまた致命的なダメージを受ける。そんな限界状況に立たされるなかで、リュカはジリエトに尊敬の念を覚えるようになる。厳しい状況の中でも自分を忘れず、任務に励むジリエトの姿を見て、自分のしていることが情けなくなったのだ。

最後はジリエトとリュカの二人だけになる。その機会にリュカはジリエトに自分のしてきたことをわび、許してくれという。ジリエトは無論許してやる。そこへ援軍が到着する。たすかる見込みが出てきたのだ。しかしそう思った瞬間、ジリエトは敵の銃弾を浴びて死んでしまうのだ。

こんなわけで、この映画の結末は実にさびしい。ジリエトは、折角リュカと和解できたのに、その瞬間に死ななければならなかった。また、ジリエトの妻となったアイシャにとっても、なんとも救いのない結果に終わった。

ひとつだけ、救いと言うべきものがあるとすれば、それはリュカがジリエトに謝罪するところだろう。彼が何故謝罪したのか、それはあまり問題とはされていない。そうすることで、ジリエトの人柄のすばらしさをアピールできればよい、ということなのだろう。このあたりは、ジャヴェール警部がジャン・ヴァルジャンの人柄に脱帽する「レ・ミゼラブル」を思い出させる。「レ・ミゼラブル」では、追及する側のジャヴェール警部が死ぬのであるが、この映画では追及される側のジリエトが死ぬという違いはあるが。

なお、リュカを演じたル・ヴィガンはデュヴィヴィエの前作「ゴルゴタの丘」ではイエス・キリストを演じていた。ギャバンのほうはピラト役だった。それがこの映画では、ジャン・ギャバンのほうが追われる役をつとめ、ル・ヴィガンが追う役を務めたわけで、「ゴルゴタの丘」とは全く逆の役回りになっているのが面白い。

また、アイシャを演じたアナベラは、「ル・ミリオン」や「パリ祭」での清楚な女性の役柄が印象に残るが、この映画の中では、アフリカのエキゾチックな雰囲気の女性を演じている。目を始めとして、表情の動きがなんとも独特の雰囲気を漂わせていて、なかなか印象的だった。

映画としては、こじんまりとよくまとまっている。特に映像処理については、隅々まで神経が行き届いている。モンタージュの組み合わせ処理が非常に丁寧になされているので、画面にひとつも不自然なところがない。デュヴィヴィエが巨匠扱いされるのは、こうした映像技術の巧みさによるところが大きいのだと思う。

なお、原題のLa Bandera は、もともとはスペイン語で、アフリカの現地部隊(つまり外人部隊)という意味だそうだ。







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