陽は昇る(Le Jour se lève):マルセル・カルネ

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冒頭でクライマックスに当たる部分を提示し、その後で、主人公の回想や第三者の証言という形で、クライマックスに至った背景を描いていくという手法は、小説や映画で数多く用いられてきた。回想ものともいえるそういったジャンルのうちで、マルセル・カルネ(Marcel Carné)の「陽は昇る(Le Jour se lève)」は、もっとも成功したものの一つだろう。この映画では、冒頭の部分で主人公が銃で殺人を犯す場面がアップされた後、殺人現場としてのアパートの一室に閉じこもった主人公の男が、自分がこの殺人を犯さざるを得なかった背景について、警察による包囲網をくぐりながら回想するという形で進んでいく。題名の「陽は昇る」は、回想の長い一夜と、その夜が明けて主人公が自殺するという内容を、象徴的にあらわしているわけである。

このように、この映画は殺人事件の背景を描いた回想映画なのだが、回想の対象となった出来事は、至極単純なものである。二人の男と二人の女の間で、不可思議な愛憎劇が繰り広げられたあげく、一人の男がもう一人の男を射殺する。それだけの話だ。一人の男がなぜもう一人の男を射殺しなければならなかったか、映画からは納得できるものが伝わってこない。嫉妬でもないし、憎しみでもない。殺すことに大した動機が感じられないのだ。そんな曖昧な動機で、人は殺人などできるものだろうか。そんなふうに思わせられる。しかし、人間の感情などというものは、理屈で割り切れるものではない。だいたい、男が女を愛し始めることにさえ、たいした理屈があるわけではない。人は何のわけもなく人を愛するようになることもあれば、何のわけもなく殺すこともあるのだ。カルネのこの映画には、そんな理屈を超えた感情の流れが伝わってくる。理屈を超えているという点では、「霧の波止場」や「北ホテル」で描かれた男女の愛にもそうしたところがあったから、これはカルネ映画に共通する特徴なのかもしれぬ。

殺人の舞台になったアパートは、どうやらフランスの地方都市のようだ。どうみてもパリの雰囲気ではない。フランスの地方都市によくあるように、こじんまりした広場を囲んで建物が並んでおり、その一つである六階建てのアパートに、ジャン・ギャバン(Jean Gabin)扮する工場労働者フランソワが住んでいる。彼の部屋の中から銃声が聞こえ、やがて一人の男が出ててる。男は腹を拳銃で撃たれており、よちよちと歩いているうちに、階段を転げ落ちて息絶えてしまう。その後は、おなじみの大騒動だ。警察官がやってきて、フランソワに近づこうとするが、フランソワは寄せ付けない。大勢の警察官がアパートを包囲して、フランソワの部屋に銃弾を撃ち込んだりするが、なぜかその様子はのんびりとして、一気に踏み込んで形をつけようとする気迫が感じられない。広場には、事件のことを知った人々が大勢集まってきて、事態の成り行きをかたずを飲んで見ている。彼らの多くは、フランソワとは日頃から仲良くしていた友人たちなのだ。だから何故フランソワがこんなことをしたのかわからない。

やがて夜がやってくる。長い夜になるだろう。警察の攻撃が多少弱まったのを潮時に、フランソワの回想が始まる。その回想の中では、フランソワ本人のほかに二人の女と一人の男が出てくる。女のひとりはフランソワーズ(ジャクリーヌ・ローラン Jacqueline Laurent)といって、フランソワが働いている工場に花を持って訪ねて行ったことがきっかけで、ふたりはすぐに仲良くなる。ところが、フランソワーズには別に慕っている男がいた。ヴァランタン(ジュール・ベリー Jules Berry)という旅の曲芸師だ。この男がフランソワーズを虜にしてしまっていたのだったが、そこにフランソワが現れて、彼女の愛を巡って争うという形になる。一方、ヴァランタンにはクララ(アルレッティArletty )という情婦がいた。クララはヴァランタンに捨てられた腹いせに、フランソワを誘惑する。こうしたわけで、二組の男女の間で、複雑な恋の駆け引きが展開するというわけである。この駆け引きの中で一番解せないところは、フランソワとフランソワ―ズの愛が、他のカルネ映画における男女とはかなり違うことだ。フランソワーズは、どうも二人の男を同時に愛してしまった愚かな女のようなのだ。そのフランソワーズに比べれば、クララの方はずっと直情的な女として描かれている。

ともあれ、フランソワはフランソワーズを選ぶ。ところが、ヴァランタンのほうもフランソワーズが忘れられない。そこで、フランソワにまとわりついては、奇妙なことを言ってフランソワをフランソワーズから遠ざけようとする。自分は実はフランソワーズの実の父親なのだ。その父親としての権威によって、お前には娘に近づくなと宣言する、といった具合だ。

ヴァランタンに執拗に付きまとわれたフランソワは、ついに堪忍袋の緒が切れるのを感じる。普通の男なら、相手を散々殴るくらいの憂さ晴らしをして終わらせるところだろうが、フランソワの場合にはヴァランタンを発作的に撃ち殺してしまうのだ。なぜそんなことになるのか、映画を見ている観客にはよくわからない。よくはわからないが、フランソワがそんな馬鹿なことをやったのには、多少は同情できるところがないわけでもない。そんなふうに自分を納得させながら、観客たちは映画を見るということになる。映画を見るのに、大した理屈が必要なわけではないから。

一晩続いたフランソワの回想は、陽が昇って夜が明けることで中断される。もはや回想などしている場合ではないのだ。警察が包囲網を狭め、いつなんどき部屋の中に押し入ってくるかわからない。もっとも、警察のほうは実にのんびりしたもので、部屋に突入する代わりに、屋根伝いにフランソワの部屋の窓に近づき、そこから催涙ガスを投げ込もうとしている。そんな騒ぎのさなか、フランソワはついに観念し、自分の胸に拳銃の弾丸を撃ち込んで自殺してしまうのだ。フランソワが自殺したその時に、二人の女たちは、それぞれの立場から、自分たちとフランソワの不幸を嘆いて見せるというわけだ。

こんなわけで、この映画には、浮世離れしたところがある。映画で描かれているのはリアルな世界なのだが、そのリアルな世界をシュルレアルな、つまり浮世離れした要素が溢れている。

日本人も浮世離れした話は好きだが、日本人の芝居の場合には、最初から浮世離れしたという前提のもとでそれを演じてみせる。ところがフランス人は、レアルな世界を描きながら、そこに浮世離れした要素を見るのが好きなようだ。

この映画の中でのジュール・ベリーの演技は実に面白い。こんなにいやらしい人間は、日本人は到底造形できないだろう。一方、ジャン・ギャバンの方は、他の作品同様に、武骨で真正直で、自分自身に対して誠実であるほかありようがないといった、例の役柄を、この映画の中でも演じ切っていた。







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