セウォル号船長への死刑求刑は正義にかなっているか

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300人以上の死者を出した韓国船セウォル号事件について、韓国の検察が当時の船長に対して死刑を求刑したそうだ。この求刑を聞いて首をかしげたのは筆者だけではあるまい。求刑の前提となる罪は殺人罪だということだが、果してこのケースで殺人罪を適用するのが妥当なのか。

わかりやすくするために、仮に日本の場合だったらどういうことになるか、考えてみよう。日本の場合なら、こうしたケースでは「船員法」が適用されるというのが専門家の意見だ。船員法は、事故時における船長の乗客救助義務について、12条で、「船長は、船舶に急迫した危険があるときは、人命の救助並びに船舶及び積荷の救助に必要な手段を尽くさなければならない」と規定しており、これに対する違反については5年以下の懲役を課すとしている。つまり、日本でなら、このような事故に対しては、船長に対する量刑は5年の懲役というのが最大限度ということになる。

韓国にも、日本と同じように、船員法というものがあるという。韓国の船員法も、11条で、「船長は、船舶に急迫した危険があるときは、人命、船舶、貨物を救助するために必要な措置を尽くさなければならない」と規定しており、人命救助義務違反については、これも日本同様、5年以下の懲役を課すとなっている。つまり韓国でも、こうした事故については、5年の懲役というのが、もっとも重い量刑という法体系になっているわけだ。

それが何故、このケースに殺人罪を適用し、船長に対して死刑を求刑したのか。おそらく、検察当局としても、国民の強い怒りを無視できなかったということなのだろう。しかし、国民の怒りがいかに強いと言っても、それが法の正義を逸脱してもよいという理由にはなるまい。仮に、このケースに殺人罪を適用するのが妥当だとしても、そのためには殺人罪を構成する法的な要件がなければなるまい。しかし、このケースについては、船長に殺人の意思があったと認定するのは無理というものだろう。

法には、法の正義というものがある。とくに人を裁く刑法にあっては、それは厳格に扱われねばならない。近代刑法はそのために、罪刑法定主義というものを採用している。罪と罰とが法律によって厳密に規定されており、あらゆる犯罪はそれに基づいて裁かれねばならないという原則だ。今回のようなケースでは、船長の職務上の義務とそれに違反した場合の罰則とが、罪刑法定主義にもとづく罪刑ということになる。それを、こんなケースに殺人罪というようなものを適用して、それをもとに死刑を求刑するというのは、罪刑法定主義からの逸脱だと考えねばならない。このケースでの罪が軽すぎるというのであれば、もっと重くすればよいだけの話だ。もっとも、刑法には新しく規定された刑罰の効果は遡及しないという原則があるから、このケースにそれを採用するわけにはいかないが。

船員法が、船長に対してこのように重い義務を課していることから、日本では、船長の身分的な保証は厚いというのが普通だ。重い義務は厚い待遇と釣り合わねばならないというのは、ある種常識ではなかろうか。ところが、この韓国のケースにあっては、船長はパートタイムの雇われ船長だったということだ。つまり、身分の保障が藁屑のように軽かったというわけだ。このように軽い待遇で、殺人罪まで適用されかねない重い義務を課されるというのは、法の正義に照らして、あまりにもひどい話ではないか。司法当局を始め、韓国の為政者たちは、このケースの責任を船長や従業員たちに押し付けて、自分たちの責任回避を図っている。どうも、そんなふうに見えてくる。







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