廣松渉のマッハ論

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エルンスト・マッハは、新カント派の中心的な思想家であり、かつ自然科学者としても数々の業績を残しているが、レーニンが「唯物論と経験批判論」のなかで徹底的に批判したこともあって、日本では、一流の思想家としてはなかなか認められなかった。そんなマッハを、本格的に日本に紹介したのが廣松渉である。廣松はマッハの主著「感覚の分析」や「認識の分析」を翻訳する一方、その思想の特徴を解明している。「事的世界観への前哨」に収められた「マッハの現相主義と意味形象」と題する論文は、その成果である。

廣松はマッハを、20世紀哲学の先駆者と位置付ける。20世紀哲学の課題を一言で言えば、主客二元論の克服ということになるが、マッハはその課題を意識的に追求した最初の哲学者だった。マッハの後に、ベルグソンのイマージュ論、ウィリアム・ジェームズの純粋経験論などが続き、日本の西田幾太郎も純粋経験論を展開したが、それらはみな、主客分離、物心分離以前の一元的な場面から出発し直そうとする強い意志に支えられていたのであり、その意味ではマッハの問題意識を引き継いだという面があった。もっとも、それは第三者の眼にそう映るだけで、当の本人たちの間に思想の交流があったわけではない。マッハの哲学は、20世紀の専門的哲学者には直接的な影響を殆ど及ぼしていない、と廣松がいうとおりである。

廣松はマッハの思想を、現相主義とか要素一元論という言葉で特徴づけている。現相とは、廣松の言う「現象的所与」に近い意味合いであり、主客分離以前の混沌とした感覚的な所与として捉えられている。要素とは、そうした感覚的所与を構成するものである。したがって要素一元論とは、主客分離以前の混沌とした現象的所与に定位する立場であるということができる。

デカルト以来の主客二分論にあっては、認識主体としての主観と認識対象としての客観的世界とがそれぞれ実体として存在し、その両者が相互に作用することから認識が生まれると考えられてきた。それに対してマッハは、主観とか客観とかが実体として存在することを認めない。マッハは、実体としての主観や客観から出発するのではなく、主客未分の混沌たる現象的所与、現相から出発する。この現相から様々な経験が生じてくる過程で、主観とか客観とかいうものが現象を叙述するための言葉として生まれて来たに過ぎない、と考える。だから主観と客観がまず存在してそこから現象が生まれるのではなく、現象がまずあってそこから主観とか客観とかが分離して来ると考えるわけである。

であるからマッハは、客観的世界が自立的に存在(実在)しているという考え方を認めない。我々はとかく、現象の背後にそれを成立させているそもそもの本体(カントのいう物自体)が存在するのと思いがちであるが、マッハはそうではなく、存在するのは要素複合体だけだと主張する。要素複合体という点では、客観的な対象だけではなく、認識主体と考えられている主観でさえ、要素の一つに過ぎない。確実に存在しているといえるのは、この要素としての主観であり、客観なのだが、それはあくまでも自立した実体などではなく、現象的所与を構成する要素の一部分なのだ。

このように実体概念を否定するマッハは、実体相互の働きあいとしての因果関係の概念をも否定する。伝統的な因果関係の概念では、絶対空間に存在する実体としての物体Aに或る力が原因として働き、その結果Bという現象が生じるという風に考える。だがマッハはそれを、要素間の関数的な関係としてとらえる。関数的な関係は実体の概念を前提にしなくても成り立つ。現象が説明できればいいのである。このように、個々の現象を、関数的関係の一つの例として認める。それがマッハの考えの基本をなすものだ。

こうした考え方は、カッシーラーが「実体概念と関数概念」の中でも主張しているところだ。現象を関数的に説明しようとするのは、現象を実体ではなく意味の連関として捉えることにつながる。

廣松がマッハの思想に大きな意義を認めたのは、この部分だと思う。実体はいうなれば「もの」のことだ。それにたいして現象は事柄に属する。事柄は「こと」と言い換えられる。世界を「もの」の連関ではなく「こと」の連関と考えた廣松にとって、マッハは「こと」の思想の先駆者として映ったに違いない。

しかし廣松がマッハを評価するのはここまでだ。マッハは現象的所与の説明原理として関数概念を持ち出すが、この概念の出自については何も語っていない。それは説明の必要もないほど自然なものであり、人間には先天的に備わっている知的枠組なのだとでもいいたいかの如くだ。しかしそれではすまされないだろう、というのが廣松の立場だ。

廣松にいわせれば、関数概念のうちには、イデアールな要素が含まれている。そのイデアールな枠組でレアールなものを見ることで人間の認識が生まれる。しかしてこのイデアールな枠組とは、人間の共同主観的存在構造に裏打ちされている。マッハはこのことを全く度外視して、人間があたかも神から授かった能力である関数的操作を駆使して認識しているように考えているのではないか、そういって廣松は、次のように厳しい批判の言葉を投げかけている。

「マッハの要素一元論は、こうして、無意識のうちにイデアールな意味契機を懐胎した共同主観的な知覚形象を実体化し、かつ、このようにして「要素」とみなした与件の函数的・機能的な連関というこれまた感性的要素ならざる存在形象によって世界を成型化することにおいて成立するものであり、存在論的・認識論的にみて原理的に維持されがたい」(事的世界観への前哨「マッハの現相主義と意味形象」)







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