禁じられた遊び(Jeux interdits):ルネ・クレマン

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ルネ・クレマン(René Clément)の作品「禁じられた遊び(Jeux interdits)」は、究極の反戦映画として、また感動的な愛のドラマとして、世界の映画史上に不滅の足跡を残した作品である。空襲で親を失った少女が、田舎の農家に拾われ、そこの少年と折角仲良しになって生きる希望が出て来た時に、無残にもその少年から引き裂かれてしまう。その際に、少女が少年の名を叫びながら、群衆でごった返す駅の構内をさ迷い歩く、その場面は誰でも涙なしには見られないだろう。

だが、この映画は、反戦映画に関わらず、第二次大戦が終了してからかなり経過した1952年に作られた。イタリアのネオ・レアリズモや日本の高名な映画監督たちが、戦後すぐに、反戦映画を次々と作ったことを考えれば、遅きに失したという感が無きにしもあらずだが、そこにはフランス映画特有の事情が働いていたと考えることができる。

イタリアや日本の戦後映画が戦争をテーマに取り上げた際には、戦争の非人間性や虚しさを訴えたものが多かった。そこには、戦争のおかげで人々はひどい目にあわされた、という視点が働いていた。だからそれは、勢い「反戦」映画となったわけである。

ところが、フランス人が戦争をテーマに映画作りをした場合には、反戦ではなく、敵であるナチス・ドイツとの戦いということに焦点があてられた。ナチス・ドイツとの戦いの中でも、フランス人の心に最も強く訴えかけたのはレジスタンス運動である。ナチ占領下のフランスにあっても、英雄的なフランス人たちは、レジスタンス運動に身を捧げることで、何時かは自分たちが勝利するのだという、心意気を失わなかった。戦後のフランス映画には、その心意気を描いたものが多かったのである。クレマン自身も、「鉄路の戦い」のなかで、鉄道労働者たちの英雄的なレジスタンス運動を描いた。

フランスではこういった事情が働いて、イタリアや日本のように、民衆が戦争の被害者であるとするような視点には、なかなか立てなかった。民衆は被害者どころか、英雄的に抵抗し続けた勇敢な戦士であったわけだ。

しかしこれは、クレマンのように積極的に戦争をテーマに取り上げた作家たちに言えることであって、フランスの多くの映画人、とりわけ巨匠と呼ばれたような人々は、戦争をテーマにした映画さえ作らなかった。その点は、小津(風の中の雌鶏)、溝口(夜の女たち)、黒沢(静かなる決闘)といった巨匠たちがこぞって戦争をテーマに取り上げ、それを反戦映画に仕立て上げた日本とは大きな違いである。

ともあれクレマンは、終戦後7年にしてようやく、戦争の英雄的側面のみならず、その非劇的側面をも取り上げる気になったということだろう。

この映画にはいくつかの鑑賞ポイントがある。まず、冒頭の空襲場面だ。日本の反戦映画では、戦争のシーンが具体的に描かれることはほとんどない。それは、人々の運命を狂わせた忌々しい事態として、背景的に示唆されるにとどまるのが殆どである。ところがこの映画では、ドイツ空軍がフランスの農村地帯を逃げ回るフランス人避難者たちを空襲する場面が描かれる。ドイツ軍の飛行機は、逃げ回るフランス人たちを、それこそネズミかモグラを叩き潰すように撃ち殺していく。その場面は見ている者に強烈な印象を与える。おそらく、観客の中には、このようにして肉親を殺された者も大勢いたであろう。クレマンは、戦争の悲劇を描く中でも、ドイツ軍の無慈悲さを強調することを忘れなかったわけである。そこが、日本の反戦映画と根本的に異なるところだ。日本の反戦映画では、戦争は抽象的な事態にまつりあげられており、なまなましい殺戮行為として描かれることは殆どない。

二つ目は、少女と少年との幼い心の交流だ。それは子ども同士の触れ合いと言うには、あまりにも切なすぎる。彼らは彼らなりに愛し合っているともいえる。その証拠に、彼らが大人たちによって引き裂かれた時に、少年は絶望の余り神を憎むのだし、少女の方は少年の名を叫びながら、人ごみの中をさまよい歩き続けるのだ。

この一組の少年に加え、この映画にはもう一組の愛し合う男女が出てくる。彼らは、親同士が憎み合っているために、その愛は祝福されざる愛だ。その点で、ロメオとジュリエットと境遇が似ている。しかし、彼らの愛は、ロメオとジュリエットのそれのようにはスマートではない。泥臭いのだ。クレールは、この映画の舞台をフランスの田舎の農村地帯に設定したわけだが、そこに出てくる農民たちを、かなり意地悪く描いている。彼らは無知で、しかも礼儀を知らず、隣人同士が常に争いあっている。そんな無知な連中だから、長男が暴れ馬に腹を蹴られても、ろくな処置も出来ずに、結局死なせてしまう。それは彼らの無知が招いた自業自得だ、そんな突き放した視点が感じられる。

三つ目は、題名にもなった「禁じられた遊び」の中身だ。少年と少女は、死んだ犬(少女が孤児になったきっかけを作った)の墓を作ってやったことがきっかけで、犬が一人ではさびしいだろうから、仲間の墓も作ってやろうと思い立つ。そうすれば、犬は天国でもさびしい思いをしなくとも済む。こんな子供心から、二人は色々な動物の墓を作るのだが、墓には必ず十字架を立てなければならない。そこで少年は、教会の十字架を盗もうとして神父にどやされたり、教会の墓地から十字架を盗み出したりする。それは絶対やってはならない行為で、子どもたちにとっては禁じられた遊びなのだ。しかし、そんなことでもしなければ、少女が蒙った心の傷が癒えない。だから、少年が犯した禁忌は、少女を慰めるためのやむにやまれぬ行為なのだ。

結局少女は、少年の親たちによって警察に引き渡され、警察から更に赤十字に引き渡される。少女は戦災孤児として、赤十字の孤児院で育てられることになるのだ。そんな運命から逃れようとして少女は、自分は少年の家の家族だと言って抵抗する。家族の名前(ドレという)が自分の名前だとまでいう。もはや少年と別れ別れの未来は、少女にとっては考えられないのだ。そんな切ない少女の心を押しつぶすかのように、運命の車輪は突き進んでいく。

この少女の叫び声は、スクリーンを超えて、世界中にこだましたのだった。とりわけ日本では大きく反響した。日本人は、この少女が蒙ったと同じような悲しい運命のいたずらを、つい最近までそこらじゅうで見て来たからだ。

なお、ナルシソ・イェペスのギターによるテーマ音楽は、その哀愁に満ちたメロディが世界中の人々の心をとらえた。「第三の男」のツィターによるテーマ音楽と並んで、映画音楽史上最高の傑作といってよい。







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