伊勢物語絵巻十六段(紀有常)

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むかし、紀の有常といふ人ありけり。み世の帝につかうまつりて、時に遇ひけれど、後は世かはり時うつりにければ、世の常の人のごともあらず、人がらは、心うつくしうあてはかなることを好みて、こと人にも似ず、貧しく経ても、なほ昔よかりし時の心ながら、世の常のことも知らず。年ごろあひ馴れたる妻、やうやう床離れて、つひに尼になりて、姉のさきだちてなりたる所へ行くを、をとこ、まことにむつまじきことこそなかりけれ、いまはと行くを、いとあはれと思ひけれど、貧しければするわざもなかりけり。思ひわびて、ねむごろに相語らひける友だちのもとに、かうかういまはとてまかるを、何事もいさゝかなることもえせで、遣はすことゝ書きて、おくに、
  手を折りてあひ見しことをかぞふれば十といひつゝ四つは経にけり
かの友だちこれを見て、いとあはれと思ひて、夜の物までおくりてよめる。
  年だにも十とて四つは経にけるをいくたび君をたのみ来ぬらむ
かくいひやりたりければ、
  これやこのあまの羽衣むべしこそ君がみけしとたてまつりけれ
よろこびにたへで、又、
  秋やくる露やまがふと思ふまであるは涙の降るにぞありける

(文の現代語訳)
昔、紀有常という人があった。三代の帝に御仕えして、時勢を謳歌していたが、その後は世の中も変わり、時勢が去ってしまったので、世間並みともいえないほど落ちぶれてしまった。人柄は、心が美しく、高雅なことを好み、他の人とは異なっていた。貧しく暮らしていても、なお昔よかった時の心のままで、世事に疎かった。(この人に)長年連れ添ってきた妻が、次第に疎遠になっていき、遂に尼になって、姉で先に尼になった人の所へ行くのを、男は、(この女と)本当に打ち解けたことはなかったのだが、それではと言って(暇乞いをして)出て行くのに際し、大変哀れには思ったが、貧しいので何一つしてやれることもなかった。そこで思い詫びて、親しくしている友だちのもとに、「こういうわけで、暇乞いをして去っていくのに、何一つしてやれることがなくて、(そのまま)やってしまうのはつらい」と書いて、奥書に
  指を折ってこれまで一緒にいた年月を数えてみると、四十年もたったのだなあ
かの友だちはこれを読んで、大変哀れと思い、夜具まで添えて歌を贈るには
  年月だけでも四十年はたったのですから、その間奥方は何度もあなたを頼りにしたことでしょう
このように詠んでやったので、男は(感激して)
  これがあの天の羽衣ですか、なるほどあなたがお召しになるのに相応しい
(男は)喜びに絶えない余り、更に
  秋が来たか露が降りたかと見まがうほどなのは、私の涙が降っているからでした

(文の解説)
●み世:三代、●時に遇ひけれど:時勢に逢う、●心うつくしく:心が素直なこと、●あてはかなる:高雅、高貴を意味する「あて」に接尾語「はか」がついた形、●ことひと:他の人、●貧しく経ても:貧しく暮らしていても、経るは暮らすという意味、●昔よかりし時の心ながら:昔よかった時の心のままに、「ながら」は「・・・であるままに」をあらわす接続助詞、●年頃:長年、●あひ馴れなつ妻:互いに慣れ親しんできた妻、●床離れて:寝床を別にするとは仲が悪くなること、●むつまじきことこそなかりけれ:親密であったわけではないが、●相語らひける友だち:交際してきた友だち、「相語らふ」は交際すること、●十とて四つ:十といって四つくりかえす、すなわち40年のこと、●たのみ来ぬらん:頼んできたことだろうか、●これやこの:これがあの有名な、●むべしこそ:なるほど最もである。「むべ」は「うべ」ともいい、肯定を意味する、「うべなるかな」ともいう、●君がみけし:あなたの御召し物、「みけし」は「御着衣」と書く、●たてまつりけれ:「あなたが身につけていらした」をあらわす尊敬の表現

(絵の解説)
紀の有常と妻の別れの場面を描いたものと思われる。妻の前に広げられているのは、「あまの羽衣」と言われた「みけし」のことか。

(付記)
※ 紀の有常は、八世紀半ばに実在した貴族で、その娘が業平の妻になった
※ 源氏物語帚木の巻に、「手を折りてあひ見しことを数ふればこれ一つやは君がうきふし」という歌が出て来るが、これは、この段の「手を折りて」の歌の上句をそのまま利用したものである。






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