廣松渉の真理論

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西洋哲学の伝統においては、真理は主観と客観、認識と存在との一致の問題として考えられてきた。主観的な意識内容が客観的な意識対象と、あるいは主観的な認識作用が客観的な存在と合致すること、それが真理であるとされてきた。ところが廣松は、そうは考えないという。真理について主題的に論じた著書「存在と意味」のなかで、廣松は次のように宣言する。

「伝統的には、意識対象と照合的に合致する意識内容が真理(真なる認識)であるものと思念されてきた。しかしながら、我々の見地からいえば、認識の『客観妥当性』とは意識内容と意識対象との照合的合致性の謂いではない・・・真理性・虚偽性とは、結局のところ、判断成態の対象的事態に即しての共同主観的妥当性・不妥当性なのである」(「存在と意味」第二編第三章)

廣松は、真理を「認識の『客観的妥当性』」と言い換えた上で、それが「意識内容と意識対象との照合的合致性の謂いではない」といっている。つまり、真理とは、伝統的な哲学が考えてきたような、主観と客観との関連における問題ではない、そうではなく、真理とは、個別的な判断主体と共同主観的な判断主体との関連において生じてくる問題なのだ、といっているわけである。

廣松にとっては、主観といい客観といい、ともに共同主観的な存在性格をもっている。主観は孤立した個人の閉じられた意識なのではなく、共同主観性に媒介されている。わたしは、あらゆる他者から隔絶した絶対的な存在としての私なのではなく"我々"の一人としての私という存在性格をもっているのである。同じように客観も、私にとってのみあらわれる弧絶した現象なのではなく、我々の一人としての私にとって現れるという存在性格をもっている。あるものが客観的に存在するとは、それが私の認識の対象として、私の外部に存在するというのではなく、それが私にとっての対象としてのみならず、私以外の誰にとっても、つまり我々すべてにとっての対象として存在するということを意味する。客観的に存在するというのは、共同主観的に存立しているということを意味するのである。

「意味形象の"客観的な"存立ということは、まさにイデアールな『人々』にとって共同主観的に存立すること、そしてこの意味形象の存立性がレアルな個々人誰彼がそれを認識するかどうかから一応"独立"であること、このことの謂いにすぎない」(同上)

このように、対象の客観的な存立の根拠が共同主観性にあるということになれば、真理とは、先にも述べたように、個別的な判断主体としての私の判断が、共同主観的な判断主体のそれと合致することである。この共同主観的な判断主体のありかたを、廣松は「認識論的主観性」と呼んでいる。

「『人々』の共同主観的な認知がいわゆる客観性の存立と同値であると主張するとき、我々の謂う『人々』の共同主観性は、経験的・個別的な主観の単なる集合ではなく、いわゆる『認識論的主観性』としての性格をもつ」(同上)

真理とか客観的妥当性と呼ばれるものは、個別的な判断主体の判断が認識論的主観性のくだすそれと合致する事態をさしていうのである。つまり、わたしの判断が、ほかの誰のそれとも齟齬をきたさず、認識論的主観性としての判断主観一般のそれと合致すること、これが真理と呼ばれるものなのである。それゆえ我々は、真理を言おうとする場合には、すなわち正しい言説を行おうとする際には、誰もが納得するような事柄を述べなければならない。なぜなら、誰からも肯定してもらえるような言説、それが真理にかなったものであるから。この誰からも肯定してもらえる言説とは、廣松の言葉を借りれば、判断主観一般の判断的措定内容ということになる。

このあたりのことについては、「新哲学入門」のなかでわかりやすく言及されている。

「<判断主観>一般の判断的措定内容、それが所謂『真理』である(そして<判断主観一般>が否認する命題内容が『虚偽』であり、誰か具体的判断主観の虚偽的主張が『誤謬』である)と申しておくことが許されると思います・・・人々は認識の真理性を主張するさい、単なる私念的確信を表明しているのではなく、『ヒトは当然こう判断するはずだ』『当然そう判断して然るべきはずだ』という意識を伴っている・・・所謂定義や公理や規則が間主観的な『約束事』にすぎないことは了解済みのことと思います」(「新哲学入門」第一章)

このような、間主観的「約束事」のことを廣松は、「通用的真理」と言っている。これはあくまでも約束事であるから、ある一定の人間集団のなかでのみ成り立ちうるものである。たとえば、中世の西洋世界において、人々は地球の周りを宇宙が回転すると信じていたが、彼らにとってはそれが真理であったわけで、その真理を廣松は、彼らにとっての「通用的真理」といっているわけである。しかし、世の中には廣松とは異なって、「妥当的真理」を主張する人もいる。通用的真理が事実問題としての真理であるとすれば、妥当的真理は権利問題としての真理である。通用的真理は当該真理を掲げる集団との関係における相対的な真理であるのに対して、妥当的真理は歴史的・社会的制約を超越した絶対的真理であるといえる。たとえば、天動説は、中世においては馬鹿げた言説、つまり誤謬であったが、現在の時点から見れば時空を超えて動かしがたい真理である、というように。

この、通用的真理と妥当的真理との関係をどのように説明するかは、なかなか重い課題である。

この課題に廣松は次のように答える。通用的真理と妥当的真理の間に分裂が生じるのは、あるひとつの通用的真理が別の真理によってとって変わられた場合である。たとえば天動説が否定されて地動説が新たな真理となった場合のようなケースである。この場合には、天動説はある特殊な時代に通用した相対的な真理であったとされ、地動説が時代を超越した妥当的真理であると宣言される。しかし、よくよく考えれば、現代人にとって地動説以外の選択肢はないからこそ、それが妥当的真理とされるわけである。同じようなことは中世人にとってもいえるわけで、彼らにとっては天動説以外の選択肢はなかったからこそ、それが彼らにとっての妥当的な真理であったわけである。つまり、妥当的真理といえども、時代的・社会的制約を免れるものではない。人々が永遠の真理と考えていることも、神の眼から見れば、それを掲げる人々の間でのみ成り立つ相対的な真理であるのかもしれない。(もっとも、廣松は無神論者であるから、当然神を議論の場に持ち出したりはしないが)

かくして、「"妥当する真理"なるものは、我々の見地では、それが現実に間主観的同調性をもつかどうかという"事実性"によって権利づけられるのであって、認識(心なる認識)の"権利根拠"なるものは終局的には共同主観性以外のところに求めらるべくもない」(「存在と意味」)と廣松は断言するのである。

主観と客観の見せかけの対立を否定して、そのどちらをも共同主観性によって基礎付けようとする廣松にすれば、真理もまた、共同主観の構成物なのであって、共同主観を離れた絶対的な真理など、彼にとっては形容矛盾以外の何ものでもないわけである。しかし、果たしてほんとうにそういいきれるのか。その先の検証は、読者一人一人の思索にゆだねられる。







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