漱石と明治末の東京:「それから」から

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漱石は東京で生まれ東京で育ち、かつ幾度となく東京市域内での転居を繰り返したこともあって、東京の地理には明るかった。そんなこともあって、漱石は東京についての自分の知識を、小説の中で遺憾なく披露した。東京を語った作家といえば、荷風散人があまりにも有名だが、漱石もそれに劣らず東京を語っている。ここでは、「それから」を題材にとって、漱石の眼で見た明治末の東京を俯瞰してみよう。

小説の主人公である代助は、牛込の一角に家を構えていることになっている。場所を特定するのは難しいが、神楽坂を登りきったあたりで、上り方向に向かって左手(西側)のようだ。市谷方面から外堀沿いを飯田橋方面へ歩く途中、砂土原町へ通ずる坂道を登るのが近道だという記述があることからも、それは伺える。だとすれば、現在地下鉄牛込神楽坂駅がある周辺だと考えられる。

東京へ出てきた平岡夫妻が、神田での仮住まいを経て一家を構えたのは、小石川の一角である。伝通院の西隣のようだ。安藤坂から上ってきて、伝通院の焼け跡前を左に曲がるという記述が出てくるので、こう特定できるわけだ。代助は美千代と会うのが目的で、幾度となくこの家に足を運んでいる。その道筋は、牛込の家から北の方角に向かって歩き、五軒町あたりで江戸川(神田川のこと)に出、白鳥橋を渡って安藤坂を登るというのが最短のものだったようだ。そのほかに代助は、飯田橋方面から江戸川に沿って遡上し、白鳥橋のたもとから安藤坂を上っていくこともあった。

代助の実家は青山にある。現在青山墓地がある辺りだろうと思われる。牛込の家から実家に行くには、神楽坂を下りて飯田橋で赤坂方面生きの市電(外堀線)に乗り、弁慶橋で青山方面行きの市電に乗り換えるというのが最短コースだったようだ。代助はこの他のルートもとっている。青山からの帰り道、わざわざ塩町行きの市電に乗って四谷三丁目の交差点で下車したあと、津守坂を下りて士官学校前(現在防衛庁のある辺り)に出、そこを右に曲がって堀端に出ている。その後代助は、砂土原町に折れる自宅への近道を通り過ぎて、飯田橋に向かって歩いて行くのである。

この三つの地点が代助の活動の拠点となるもので、代助はこの三箇所をぐるぐると回りながら、暇をつぶして生きているわけである。行動範囲が狭いこともあって、代助の移動の手段は市電が中心だが、時折人力車も使っている。麻布のさる邸の園遊会に、兄と一緒に招待されたあと、二人で金杉橋まで鰻を食いに行く場面が出てくるが、その際に二人は車で金杉橋まで移動したということになっている。この車とは人力車のことだと思われるのだ。

「それから」がカバーしている時代には、山手線はまだ開通していなかった。中央線の方はすでに開通していて、「三四郎」の中でも、三四郎が御茶ノ水から中野行きの電車に乗って大久保まで行く場面が出てくるが、「それから」の中では、代助も他の登場人物も、なぜかこの電車には乗らない。やはり、市電のほうが身近で便利だと思われていたのだろう。

市電の中でも外堀線というのは特別のものだったようだ。これは文字通り外堀沿いを一周するというもので、都市内環状線として、山手線の先祖みたいなものだ。代助は度々この電車に乗るが、それは移動が目的だ。だが、最後の場面では、移動することが目的ではなく、ただあてどもなく時間を潰すためにこの電車に乗る。今でも、時間潰しのために山手線に乗る人がいるように、当時の東京人にもそうした人がいてもおかしくはない。それに代助の場合には、進退窮まって頭が混乱している折でもあり、電車に乗ってぐるぐる東京を回転するというのにも、それなりの事情があったわけだ。

東京の街の表情を、漱石はどう描いているか。まず街並の様子だが、これが意外と描写に乏しい。代助が神楽坂を上って行くときに、地震に遭遇する場面があって、そのなかに神楽坂の街の佇まいのようなものが描写されているが、それによれば、当時の神楽坂は狭い坂道を挟んで木造の低い家並が立ち並んでいるということになっている。おそらく神楽坂に限らず、東京の町屋の殆どがそんな感じだったのではないか。

代助はよく散歩しているが、散歩の途中で見た風景にはあまり注意を払っていない。あるとき代助は、神楽坂を下りて堀端に出、堀沿いに市谷方向に向かって歩きながら、新見附の橋を渡って招魂社の傍らを過ぎ、番町方面へと足を向ける。ここで招魂社と言っているのは、今で言う靖国神社のことだ。この神社はもともと薩長藩閥の肝いりで作られたもので、江戸っ子にとっては縁のないものだったが、日清・日露両戦争の戦死者を祀るようになってからは、普通の庶民にも縁が深くなりつつあった。その招魂社(靖国神社)について、代助即ち漱石は全く敬意を払っていない。やはり、江戸っ子の意地が多少は働いているのかもしれない。

話題を元に(東京の街の表情に)戻して、街を歩いている人たちの表情はどうか。服装は相変わらず和服が主流だ。それは「何時の間にか、人が絽の羽織を着て歩くようになった」といった何気ない記述にも伺われる。人が和服姿で歩いていることは、当然の前提となっているのだ。代助も、普段着は和服だ。和服に帽子をかぶるといったいでたちをしている。洋服を着るのは、園遊会に招かれた時などの、ハレの場面に限られる。男でさえそうなのだから、女は晴れの場でも和服姿だったろう。

「それから」が描いている世界は、明治維新からわずか四十年しか経っていない。たった四十年では、人間というものはそんなに変われるものではない。代助の父親は、徳川時代の考え方のままに生きているし、嫂も天保時代との連続性を感じさせるような趣を漂わせている。衣装でさえ旧態依然なのだから、まして心の中がそんなに変われるものではない。漱石はそのように感じていたに違いないのだ。







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