恐るべき親たち(Les parents terribles):ジャン・コクトー

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恐るべき親たち(Les parents terribles)は、ジャン・コクトー(Jean Cocteau)が1938年に書いた同名の戯曲を1948年に自分の手で映画化したものだ。原作となった舞台は完全な室内劇で、アパートの一室という狭い空間の中で少数(5人)の登場人物が愛憎の感情がこもったやりとりをする。中心となるテーマは母子関係だ。母子相姦を思わせるような濃密な母子関係を中心にして、それに夫の浮気や、息子の恋愛が絡んで人間関係がもつれにもつれて行く、その挙句に、母親が自殺する、その原因は若い女に息子を盗られてしまったことへの拒絶感だった、というものだ。

母親が息子の恋人に嫉妬するというテーマは、ジャック・フェデーが1935年に作った映画「ミモザ館」でも取り上げられていたが、コクトーのこの映画は、単なる嫉妬を描いているわけではない。テーマは、母子相姦ともいうべき異常な密着ぶりである。母親には息子以外のものは何も存在しないも同然だ。亭主でさえいてもいなくてもよい存在になってしまっている。亭主はだから、ほかに若い女を作って鬱憤ばらしをしないわけにいかなくなる。このへんてこな親子と一緒に暮らしているオールドミスは、かつてこの亭主と婚約したこともあったのに、この母親である女にとられてしまったのであった。それなのにこの女は、息子が生まれるとその子に夢中になってしまい、亭主のことをほったらかしにするようになった。そんな勝手な生き方を見ていると、この昔のフィアンセたるオールドミスは怒りに囚われることもある。やがてその怒りが爆発し、それもひとつの原因となって、母親は自殺することとなるだろう。

母親のイヴォンヌ(イヴォンヌ・ド・ブレー Yvonne de Bray)は息子(ジャン・マレー Jean Marais)を自分の恋人のように扱っている。また息子にも自分を恋人のように思うように要求する。自分をママとは呼ばせないで、ソフィーと呼ぶように息子に求める。息子はそんな母親の要求に応えて、あたかも若い恋人であるかのように振る舞う。ところがその息子に新しい恋人ができた。それがもとで奇想天外な事態が繰り広げられていく。その奇想天外さが、この映画を基本的にはコメディにしているのだが、単なるドタバタのコメディではなく、辛辣さの入り混じった、運命を感じさせるようなコメディになっている。ダンテの神曲を引き合いに出すまでもなく、コメディとは本来運命と密接に結びついたものなのだ、というコクトー一流のメッセージが伝わってくるようである。

22歳になった息子ミシェルの恋人はマドレーヌ(ジョゼット・デイ Josette Day)という名の25歳の女だ。息子からこの女のことを聞かされた母親は、頭から受け入れを拒絶する。息子を誘惑するような女はふしだらな女だから、受け入れるわけにはいかないというメチャクチャな理屈だ。一方父親の方は、息子の話を聞いて、その女が実は自分の愛人だということに気づかされる。こうして、母親は息子を独占するために、父親はその女との浮気をとりつくろうために、息子に女をあきらめさせようとする。そこに、オールドミスのレオ(ガブリエル・ドリジア Gabrielle Dorziat)も加わり、息子の前で一芝居をうち、女をあきらめさせようとしにかかる。その芝居と言うのは、女には、息子とその父親の外にもう一人愛人がいる、つまりこの女はふしだらな女で、お前はそれにもてあそばれているのだ、と息子に信じ込ませようというのである。

こうして、舞台は一家の住んでいるアパートの一室からマドレーヌの部屋へと移り、そこでコミカルな悲劇が演じられる。まず、父親とマドレーヌとが愛人同士だったことが明らかにされる、その上で、マドレーヌには他に第三の男がいることを父親が暴露し、マドレーヌもそれを否定しないために、ミシェルは絶望する。マドレーヌは父親から脅迫されて、反論できない状態に追い詰められていたのだ。そこで、そのありさまの一部始終を見ていたオールドミスは、この夫婦の余りの身勝手さに怒りを覚え、マドレーヌの味方になってやろうと決心するのである。

こうして事態はどんでん返しへと急変していく。舞台は再び一家のアパートに移る。そこに登場人物の五人がすべて揃う。揃ったところで、オールドミスの口からそれまでのいきさつがすべて明かされ、マドレーヌが潔白で、しかもミシェルを愛しているということがわかる。ミシェルは喜び、マドレーヌを抱きしめる。彼女はオールドミスの計らいで、アパートの部屋の一角に身をひそめていたのだ。抱き合う二人を見た母親は、もはや二人を引き裂くことはできぬと観念する。しかし、観念はしたものの、それはあまりにも受け入れがたいことだった。

母親のイヴォンヌは、息子を他の女にとられて、自分には存在意義が無くなったと感じる。そこで、インシュリンを注射すると偽ってバスルームに入り、毒を飲む。死の床についたイヴォンヌをほかの四人が囲む。死につつあるイヴォンヌの前で、レオがつぶやく。イヴォンヌがいなくなったらジョルジュ(父親のこと)を自分のものにできる、と。それを耳にしたイヴォンヌは激しく後悔する。しかしもう手遅れだ。彼女には死ぬ定めしか残されてはいないのだ。

こうしてイヴォンヌの死を以てこの映画は終わる。イヴォンヌの死の後で、残された四人にどんな未来が待っているか、それについては、映画はなにも言わない。それは観客一人一人の想像力にお任せするとでもいうように。

二人の老女優の演技が光っていた。オールドミスのレオを演じたガブリエル・ドルジアは、特に光っていた。彼女は舞台出身と言うことだが、この映画は舞台をそのまま映像にしたようなものなので、舞台で鍛えた演技が特に光ったのだろう。この時点では六十九歳にもなっていたのに、そんな年を感じさせない。ジャン・マレーのほうも、この時点では三十五歳のはずだが、二十二歳の青年を演じて不自然さを感じさせない。ジョゼット・デイは、「美女と野獣」で美女を演じた女優だが、同じ人とは思えないほど雰囲気が違っている。「美女」役のほうが、濃厚な雰囲気を漂わせていた。










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