廣松渉の物象化論

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廣松渉のマルクス受容は、物象化論を中心に行われた。廣松以前におけるマルクスの哲学的解釈は「疎外論」を中心にしたものが多かったわけだが、廣松はそれを「物象化論」を中心にしたものに転換させたのである。

廣松以前にも、マルクスの物象化論に注目したものがなかったわけではない。その中で、もっとも影響力をもったものとしてルカーチが上げられる。ルカーチは「歴史と階級意識」の中で、資本論の中の「物象化」の議論を持ち出してきて、それを自分なりに展開して見せた。というのも、マルクス自身は、この概念を哲学的に深く掘り下げることはしなかったからである。

しかし、ルカーチの物象化論は疎外論の臍の緒を引きずったままだ、と廣松は批判する。ルカーチは、折角「物象化」という概念を取り上げたに関わらず、それを「疎外論」とごちゃ混ぜにしてしまったというのである。ルカーチが理解したところのマルクスの物象化概念は、人間同士の社会的な関係が物と物との関係として現れることをさし、その典型としては、人間の労働が労働力という形で商品化されることが上げられるが、その結果、「人間独自の労働が、なにか客体的なもの、人間から独立しているもの、人間には疎遠な固有の法則性によって人間を支配するもの、として人間に対立させられる」(ルカーチ「歴史と階級意識」城塚登訳)というような言い方をしているからである。

つまりルカーチは、物象化が疎外の原因だ、といっているわけである。ということは、ルカーチにおいては、疎外論と物象化論とは、内的につながりあっているということである。これに対して廣松は異議を唱える。疎外論と物象化論とは、一緒くたにして議論してはいけない。両者は別々の内実を持っているばかりか、断絶していると考えたほうがよいのだ、というわけである。

いうまでもなくマルクスの疎外論は、ヘーゲルから受け継いだものである。ヘーゲルは、絶対精神が自己疎外することを通じてさまざまな現象が生じるとしたわけだが、マルクスは、これを唯物論的に解釈しなおして、現実の個々の人間は、類的本質存在としての人間が疎外された形なのだと考えたのである。しかしマルクスのこの考え方でも、西洋哲学の伝統的な枠組みから自由になっていない、と廣松はいう。なぜなら、この考え方には、伝統的な「実体」の概念がまとわり付いているからである。「類的本質存在」としての人間が「実体」としての人間であり、現実の個々の人間はそのひとつの範例、というか現象に過ぎない。これでは、ヘーゲルの観念論は逆立ちしただけで、その本体はすこしも変わっていないことになる。それではいけない、と廣松はいう。

「『類的本質存在』としての『人間』を以て大循行における自己疎外・自己回復の『実体=主体』とするわけにはいかない」(「物象化論の構図」以下同じ)

マルクスがこうした伝統的な枠組みから解放されるのは、疎外論を棄てて物象化論の地平にたどり着いて以降のことなのであり、この二つの概念の間には断絶がある、と廣松はいう。

この断絶を正しく理解するためには、物象化という概念の内実について正確に捉えておく必要がある。

廣松はいう。物象化は「学理的省察者の見地にとって(fur uns)一定の関係規定であるところの事が、直接的当事者意識には(fur es)物象の相で映現することの謂いである~ただし、このさい、映現というのはあくまで学理的省察の見地から言ってのことであって、当事者にとっては直截に"物象の相で存在する"と言われうる」(同上)と。

これは、或る進行している事態について、それを外部の第三者の目から見た場合と、内部の当事者の目から見た場合とでは違ったふうに見えるということを言っているのであり、学理的省察者というのが第三者の目にあたる。そこでこの文章を言い換えると、第三者からみれば、賃金労働というのは人間と人間との間の関係であるのが、当事者の目には労働力商品という物象化された形に見える、ということである。

こういうわけであるから、物象化のメカニズムには、ある種必然性の威力が付きまとっている。疎外についていえば、人間にとって本来あるべき姿というものが了解されれば、そこからの疎外と、あるべき姿の回復という筋書きが比較的に描きやすいが、物象化の場合には、そんなわけにはいかない。それは、特定の事態(あるいはシステム)の中で生きている当事者にとっては、現実的なものとして迫ってくる。それには必然的な強制力のようなものがある。なぜなら、と廣松は次のように言う。

「物象化は、フュア・ウンスには錯認であるといっても、現体制下の『対自然的かつ間人間的な現実的諸関係』に存在根拠を持つものであって、かの"大地不動・太陽回転"の錯認とも類比的に、当該システムに内在するかぎり"必然的・現実的"であり、認識を改める(誤謬を理論的に矯正する)といった単なる意識活動によって克服されうるものではない。物象化を克服するためには、それの存在根拠をなしている現実的諸関係を現実に変革することが必須の条件である。旧来の現実的諸関係を解体しないかぎり、物象化現象が不断に生産・再生産される」(同上)

ここで廣松は、革命を合理化する強力な論拠を示しているつもりなのだろう。従来、マルクス主義者たちの多くは、人間性の疎外からの回復を革命の大義としてきたわけだが、廣松はそれを否定し、物象化の克服こそが革命の意義なのだと主張したわけである。しかし、物象化を克服することで、その先に何が見えて来るのか。それについては、廣松は多くを語らない。










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