六道絵:地獄草紙、餓鬼草紙、病草紙

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平安時代の末から鎌倉時代にかけて、地獄への関心が大いに高まり、地獄絵をはじめとした六道絵と言われるものが大いに普及した。六道というのは、六道輪廻といわれるように、極楽に対する穢土を意味し、人間は極楽往生できないかぎり、六道を輪廻するというふうに観念されていた。輪廻の思想は、仏教にもともとあったものだが、それが強まるのは浄土教の普及に伴ってのことで、その背景には末法思想の普及も作用していた。

浄土教は、一方では極楽浄土のすばらしさを人々に訴えるとともに、穢土に輪廻することの苦しさをも訴えた。そうすることで、極楽に対する人々の希求を掻き立てようとした訳である。源信の往生要集が、まず地獄の苦しみを描写することから始めているのも、そのような意図の表れである。

六道とは、地獄道、餓鬼道、畜生道、阿修羅道、人道、天道の六つの世界のことをいい、いずれも穢れた世界、穢土として極楽に対置される。人は極楽に往生できないかぎり、この六道を永遠に輪廻しなければならない。この輪廻を断ち切って極楽往生すること、それが人と生まれての最大の目標となる。それを実現するためには、ただひたすら念仏するべきである。これが、往生要集が人々に訴えたことであった。

この六道の様子をありありと描き出し、人々に嫌悪と恐怖の感情を引き起こそうとしたもの、それが六道絵と呼ばれるものである。中でも地獄絵は、強烈な迫力で人々を捉えた。人々は、それらの絵の中で表現されたさまざまな苦しみに恐怖し、それから逃れるためには、極楽に往生するほかない、と強く感じたのである。

六道絵の現存するものとしては、平安時代の末(12世紀後半)に制作された地獄草紙、餓鬼草紙、病草紙、13世紀前半に製作された北野天神縁起絵巻、13世紀後半に制作された聖衆来迎寺蔵六道絵などがある。

平安時代の末に製作されたものは、後白河法皇が命じて作らせたものである。それらは六道のそれぞれについて詳細に描かれたもので、法王はそれらを蓮華王院(三十三間堂)の宝蔵に収めさせたのであったが、そのうちの地獄草紙、餓鬼草紙、病草紙(人道絵巻)が今日に伝わった。

ここでは、平安時代末期に作られた地獄草紙、餓鬼草紙、病草紙について、紹介したい。

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