彼岸過迄:漱石を読む

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新聞連載小説「彼岸過迄」を開始するにあたって漱石は、諸言というか前置きというか、読者への言訳のような文章を載せている。「門」連載終了後に大病をわずらい、しばらく仕事を中断したが、ようやく再開できる段取りとなった、ついては、久しぶりのことでもあり、なるべく面白いものを書かなければならないと思っている、というような趣旨のものだ。そんな思い入れがあるためだろうか、この小説は漱石の後期の作品群の中では、ちょっとした毛色の違いを感じさせる。「猫」以来の例の諧謔趣味が復活して、遊びの精神とも言うべきものが再び表面化しているのだ。これを「それから」や「門」と「行人」以降の作品群との間に挟んで比較してみれば、作風の相違は一目瞭然である。

「彼岸過迄」という題名の由来や小説の構成についても、漱石はわざわざ触れている。

「『彼岸過迄』というのは元日から始めて、彼岸過まで書くつもりだから単にそう名付けたまでに過ぎない実は空しい標題である。かねてから自分は個々の短編小説を重ねた末に、その個々の短編が相合して一長編を構成するように仕組んだら、新聞小説として存外面白く読まれはしまいだろうかという意見を持していた。が、ついそれを試みる機会もなくて今日まで過ぎたのであるから、もし自分の手際が許すならばこの『彼岸過迄』をかねての思わく通りに作り上げたいと考えている」

まず、「彼岸過迄」という題名が小説の内容とは無関係な、便宜的に名づけたものだというのが面白い。このあたりにもこの小説が遊びの精神から出ていることを感じさせる。実際には、この小説は明治四十五年の正月に連載を開始して、その年の春の彼岸を過ぎて、陽春の四月に終了したのであった。

漱石はまた、いくつかの短編小説を重ねて一つの長編小説を構成するように仕組みたいと言っている。その言葉どおりこの小説は、一応は独立性の高い、つまり短編としてそれなりに完結している六つの話からなっている。といってもそれらは互いに係わりを持たないわけではない。啓太郎という、大学を出たばかりで適当な就職先を探している青年を主人公にして、この青年と彼を取り囲む人物たちとの係わり合いを描いているという点で、それぞれの話は共通の接点を持っている。しかも、主人公と関わりを持つ人々と云うのが、主人公の親しい友人とその家族や親戚たちなのである。

六つの話の表題はそれぞれ、風呂の後、停留所、報告、雨の降る日、須永の話、松本の話、となっている。しょっぱなに出てくる「風呂の話」は、それだけで完結しており、他の話とは大きなつながりは持たないが、他の五つは、それぞれが相互に関わりあっている。これらはすべて、啓太郎の友人須永と彼の家族や親戚に関わる話だからである。

この須永という友人が、それ自体で変わった人物像として描かれているが、この小説群の中でもっとも変わった人物は須永の二人いる叔父のうちの松本という人物だ。この人物は大学を出たインテリとされている点、生業を持たず毎日遊んで暮らしている点で、例の高等遊民の一人である。松本は自分自身のことをさして高等遊民だといっているが、この言葉を漱石が小説の登場人物に吐かせたのはこれが最初だと思う。

六つの話の中で一番力のこもっているのは「須永の話」だろう。これは須永と彼の従妹千代子との一種独特の関係を、須永自身が語ったという形を取っているものだ。須永の母親は、自分の妹が生んだ千代子を息子の嫁に貰うつもりでいる。千代子のほうも須永に嫁いでもよいと考えているフシがある。ところが須永自身は千代子と結婚する気にならない。何故ならないのか、その理由は須永自身にもはっきりしない。だから、千代子や母親に向かって明確に拒絶の意思を示すこともない。この曖昧な態度が千代子と母親を苦しめる、というような一風変わった設定の話だ。

この話で現代人の興味を引くのは、従兄妹同士の結婚がテーマになっている点だ。かつての日本では、従兄妹同士の結婚は珍しいことではなかった。だがそれは世界的に見れば珍しい方なので、世界には従兄妹婚をタブー視する文化の方が多い。従兄妹婚を許容する文化でも、その範囲は交叉従兄妹に限るケースが多く、並行従兄妹婚は忌避されるのが普通である。ところがこの小説の中では、須永と千代子は並行従兄妹の関係にありながら、彼らの間で結婚話が進行している。実際には、須永と千代子とは血のつながった従兄妹ではなかったということが明らかにされるが、それは事後の話で、小説の進行過程の中では、彼らの結婚は道義的な問題とはされていない。

ともあれ、須永と千代子との間で繰り広げられる不思議な関係は、現代の読者の目には、かったるく映るのではないか。現代人は、男女の関係をこんなにもつれた感情では扱わないものだ。いくら日本人が恋愛に対して淡泊な民族だとはいえ、相手が好きなのか嫌いなのか、それもわからないような馬鹿でもあるまい。ところがこの小説の中の若い男女は、そんな馬鹿な人間たちとして描かれている、としか思いようがない。








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