2015年1月アーカイブ

あひるの仲間たちと新年会を催した。場所は例年のとおり西新宿の居酒屋三代目網元。待ち合わせ時間の六時について見ると、すでに6羽のあひるが集まっていて、生ビールを飲んでいた。中に珍しい顔がある。福ちゃんあひるだ。彼の顔を見たのは、前々回の統一地方選の直後だったから、およそ八年ぶりの再会だ。お元気ですかと聞くと、おかげさまで毎日元気で過ごしています。元気ついでに地元の敬老会のメンバーにもしてもらえましたと言う。敬老会は75歳になると入れてもらえるのだそうだ。とてもその年齢には見えない。肌の色は艶々としているし、声もまだ若々しい。どう見てもおじいさんあひるには見えない、おじさんあひるだ。

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(駒競行幸絵巻:東宮到着の場面1)

駒競行幸絵巻の久保惣美術館本は二幅の絵を収めている。ひとつは、東宮が高陽院に到着した場面を描いたもの、もうひとつは後一条天皇の出御の様子を描いたものである。

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この作品は、エル・グレコがスペインへ渡る以前、イタリアのローマで描いた初期の傑作である。エル・グレコは、1567年の中ごろに、故郷のクレタ島からイタリアのヴェネチアに渡り、そこでティツィアーノの工房に入って、いわゆるヴェネチア派の画風を身に着けた。その後、1570年の暮頃にローマに移り、枢機卿などを出した名門ファルネーゼ家に寄寓した。スペインへ渡ったのは1576年のことだが、それまでずっとローマにいたのか、あるいは一旦ヴェネチアに戻ったのか、たしかなことはわからない。

「こうして岡田夫人として改まって会って見ると、そう馴れ馴れしい応対も出来なかった。それで自分は自分と同階級に属する未知の女に対する如く、畏まった言語をぽつぽつ使った」

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(駒競行幸絵巻、太皇太后の一行が高陽院に到着したところ)

駒競行幸絵巻は「栄花物語」の一節を絵巻化したものである。テーマは、藤原頼通が万寿元年(1024)の九月に、高陽院の自邸に御一条天皇と東宮、太皇太后(一条天皇中宮)の行啓を仰いで催した競馬である。頼道は、この競馬を記念してわざわざその記録を作成させたほどだったが、この絵巻は「栄花物語」によっている。

分裂病(統合失調症)などの精神病は、とりあえずは精神の異常として捉えられる。異常というからには、正常が前提とされているわけである。正常な精神状態というものがまずイメージされていて、そこから逸脱しているものが、正常の反対としての異常という具合に定義される。たしかに、異常とは正常の反対のように見えるが、はたして本当にそうか。もしそうなら、異常の反対が正常だということになるが、本当にそうなのか。こんな疑問を提起しながら、異常とは必ずしも正常の反対ではない、ということについて木村敏は論理的な操作をしながら解き明かしていく(木村敏「異常の構造」)。

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むかし、をとこ、臥して思ひ、起きて思ひ、思ひあまりて、
  わが袖は草の庵にあらねども暮るれば露のやどりなりけり

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ロベルト・ロッセリーニ(Roberto Rossellini)の映画「無防備都市(Roma città aperta)」はネオレアリズモの古典と言うことになっているが、筆者の眼にはレジスタンスを描いた極めて政治的な映画だというふうに映った。これは、ナチスによるイタリア支配に果敢に立ち向かっていった勇気ある人々の崇高な行為を描くとともに、彼らを抑圧するナチス・ドイツの悪魔のような残虐さを告発した作品だ。これを見ると、人間というものは、限界状況に直面すると、神のように崇高にもなれれば、悪魔のように残虐にもなれるという、人間の矛盾したあり方について、それこそ残酷なまでに考えさせられる。今見ても、ものすごい迫力が伝わってくる映画だ。

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(狭衣物語絵巻、天稚御子狭衣を天上に誘う)

狭衣物語絵巻の最古のものは、現在東京国立博物館に五幅の断簡として伝わっている。そのもとの形は、狭衣物語四巻を、八巻の絵巻物に仕立てたものと考えられている。成立したのは十三世紀初め頃のことで、その後幾多の変遷を経て、徳川時代には徳川氏の所有となり、江戸城内に保存されていた。しかし、戊辰戦争の時に、上野の寛永寺に疎開した際、幕府軍の攻撃で大部分が焼失した。そのうちの一巻が完全な消失を免れて残ったが、巻物の両端が焦げるなどの、痛ましい姿と成り果ててしまった。この巻物の内容が解体され、断簡の形で仕立て直されたものが、現在東京国立博物館にあるものである。

エル・グレコが高い評価を以て見直されるのは20世紀になってからである。それまでは、マニエリズムの亜流くらいの位置づけにすぎなかった。それが高く評価されるようになったのには、ビザンチン美術が20世紀になって高く評価されるようになったことが働いている。エル・グレコはこのビザンチン美術の伝統の上に改めて位置付けられたのである。

イスラム国による二人の日本人人質事件が発生し、それに関わってイスラム国側の発する映像が日本中の眼を釘付けにした。いまの所、人質のうちの一人が殺害され、もう一人の安全も深刻に危惧される状況にある。筆者はこうした動きを、固唾を呑んで見守っていた者の一人だったが、その過程での安倍政権の一連の対応には、首をかしげざるを得ないものを感じた。

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昔、をとこありけり。人のもとよりかざり粽おこせたりける返事に、
  あやめ刈り君は沼にぞまどひける我は野に出でてかるぞわびしき
とて、雉をなむやりける

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「ひまわり(I Girasoli)」は、戦争の意味を問い続けたヴィットリオ・デ・シーカ(Vittorio De Sica)にとって、最後の反戦映画となった。この映画が作られたのは1970年のことだ。戦争が終って四半世紀経っていたわけだが、何故この時点で、再び反戦映画を作る気になったのか。

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(伊勢物語絵巻、第九段)

この絵は、伊勢物語第九段「東下り」の場面を描いたものである。東に下る男の一行が駿河の国に入り、富士の嶺を目の前に見るところだ。右手に男の一行が描かれている。馬に乗っているのは身分の高い男たち、その真ん中にいるのが主人公の業平なのだろう。徒歩姿の従者たちは、色が剥落している部分が多い。

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シャガールは、晩年に好んでサーカスの芸人を描いたが、時には自分とヴァヴァとをその芸人に見立てた絵も描いた。「演奏者たち」と題するこの絵は、そんな一枚である。シャガールとヴァヴァとが、並んでこちらの方を見、喝采に応えて挨拶をしているような様子に見える。

「行人」と「こころ」は、どちらも長い手紙で終っているところが共通している。「行人」の場合には、語り手からその兄の言動を観察して欲しいと依頼された人物が、自分の観察したところを、依頼主である語り手に手紙と言う形でつぶさに報告するということになっており、一方「こころ」の場合では、自殺を決意した「先生」が、自分の半生について語り手たる「わたし」に語って聞かせるということになっている。

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(伊勢物語絵巻、第二二段)

源氏物語に「伊勢物語絵巻」とか「在五中将物語絵巻」という表現があり、また狭衣物語にも「在五中将日記絵巻」といった表現が出て来るから、伊勢物語は早い時期から絵巻物の形で享受されていたものと思われる。だが、平安時代の絵巻物は今日に伝わっていない。今日に伝わっている中で最も古いものは、鎌倉時代(13世紀後半)のもの(久保惣美術館蔵)である。

共通感覚は、すでにアリストテレスが取り上げているほどだから、哲学上の古いテーマであったわけだが、その割に論じられることは少なかった。近世になると、デカルトが常識との関連で論じ、またヴィーコが人間の判断との関連で論じたが、哲学上の主要テーマとなるには至らなかった。これが主要なテーマとなったのは、哲学ではなく、精神病理学の分野においてだった。1970年代に盛んになった現象学的精神病理学において、共通感覚が、心の異常を解く鍵を握るものとして、俄かに注目を浴びたのである。日本においてその議論をリードしたのが、木村敏だった。哲学上の共通感覚論といえば、日本では中村雄二郎の議論が有名だが、それは木村敏の議論に触発されたといってもよい。

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昔、をとこ、人の前栽に菊うゑけるに、
  植ゑし植ゑば秋なき時や咲かざらん花こそ散らめ根さへ枯れめや

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「終着駅(The terminal station)」は、ヴィットリオ・デ・シーカ(Vittorio de Sica)がハリウッドに招かれて作った映画である。したがってクレヂット上アメリカ映画ということになっており、主演俳優たちもハリウッド・スターだが、舞台はローマであり、スタッフもほとんどがイタリア人である。

紫式部日記は、寛弘五年(1008)から同七年(1010)までの約二年間にわたる、紫式部の日記である。日記と言っても、日々綴られたものではなく、後で回想と言う形で書かれたようである。完成したのは、1010年中であったと考えられている。それから200年あまり先、13世紀の前半になって、この日記をもとにした絵巻物が作られた。

先日、スイスの与党議員が、年金老人などをモロッコの施設に移住させるという、ある種の姨捨山構想を発表して、世界中の失笑を買ったところだが、笑いごとでは済まされないかもしれない。これは極端な例だが、ドイツが隣国のポーランドの施設に老人を入居させるなど、同じような事態が実際に生じており、今後ともこうした傾向が拡大しないとも限らないからだ。日本ではさすがにそこまではいっていないが、たとえば東京の要介護老人が地方の福祉施設に入居している例はある。国内の他府県への収容が許されるなら、外国の施設への収容も許されかねない。

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愛する妻ヴァヴァの肖像を、シャガールは何枚も描いている。これは1966年に描いたものだから、ヴァヴァは60歳になっていた。画面から見る限りでは、そんなに老けては見えない。その辺は、シャガールのヴァヴァへの愛が、彼女を若々しい印象にさせているのだろう。

二度目の中東訪問を行った安倍晋三総理が、手初めに会ったのはエジプトの専制的支配者アル・シーシ大統領だ。安倍総理はまた、エジプトで演説を行い、そのなかで中東の和平と発展のために25億ドル(約2900億円)の援助を行うと約束した。援助先はエジプトに限らず、シリアやイラクも含まれるようだが、アル・シーシといい、シリアのアサドと言い、専制的な支配者として、とかく批判の多い人物だ。それに肩入れしようとするかのような安倍総理の行動は、やはり問題があると言わねばなるまい。

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むかし、をとこ、妹のいとおかしげなりけるを見をりて、
  うら若み寝よげに見ゆる若草をひとの結ばんことをしぞ思ふ
と聞こえけり。返し、 
  初草のなどめずらしき言の葉ぞうらなくものを思ひけるかな

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「ウンベルト・D(Umberto D)」も、ヴィットリア・デ・シーカ(Vittorio De Sica)が戦後イタリアの深刻な社会事情に取材したネオ・レアリズモの傑作である。この映画でデ・シーカが取り上げたのは、戦後の凄まじいインフレによって生活基盤を破壊された年金生活者たちの暮しである。年金生活者といえば、普通はうらやましがられる身分だが、戦争などの異常事態で激しいインフレが巻き起こるようになると、真っ先に生活の危機に直面する。そんな戦後イタリア社会の、弱者の受難について、この映画は描いている。

ニューヨーク・タイムズ(WEB版)のオピニオン・コーナーに、安倍晋三の(とりわけ領土問題にかかわる)ナショナリズムを分析した小文が掲載されている。いつものとおり、参考資料として引用しておきたい。

内閣府の発表によれば、2013年度の家計貯蓄率がマイナスになったという。統計を取り始めた1955年以来初めての事態だそうだ。日本と言えば、高い貯蓄率が経済成長を支えてきたことが売り物だったわけだが、いまやそうした事態は過去の神話になりつつあるのだろうか。

豊穣たる熟女の皆さんと、久しぶりに集まって、新年会を催した。一昨日(一月十五日)の夕方のこと、会場は船橋本町通りに面した中華料理屋東魁楼だ。この店は、戦後営業を開始したところからも、そう大したいわれがあるわけではないが、船橋全体が余り歴史を感じさせる街ではないので、船橋のこの手の店の中では一応老舗として通っている。味はそれなりで、値段もリーズナブルというので、地元の人には結構人気があるらしい。

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(寝覚物語絵巻第一段、縦25.8cm、奈良、大和文華館蔵)

寝覚物語は、更級日記の作者菅原孝標女の作だとする説が有力で、そうだとすれば、11世紀の半ばに成立したことになる。それを絵巻物にしたのが寝覚物語絵巻だが、これは12世紀後半から13世紀初期にかけて作られたと考えられている。ただし、源氏物語や伊勢物語と違って、現存するテクストと一致していない。現存テクストは、巻一と巻三であり、そのほかに、巻二と巻四があったと考えられるのだが、この絵巻物は、内容からしてそのいづれにも対応していない。そんなところから、巻五なのではないかとの推測もある。

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ダヴィデは、イスラエルの二代目の王として、ユダヤ民族繁栄の基礎をつくった人である。巨人ゴリアテを石で倒したり、竪琴を弾いて王サウルを慰めたりと、様々な伝説がある。だから、キリスト教圏では、芸術や文学の格好の素材となってきた。ミケランジェロのダヴィデ像は、その最も名高い例である。

「行人」はいろいろなエピソードが盛られているので賑やかな結構の小説のようにも読めるが、枝葉を落して根幹を取り出してみると、人間の狂気についての漱石なりの考えを述べたものだというように受け取れる。その狂気は、そんなに大袈裟なものではない。一種のノイローゼ(神経症)ともいえるようなものだ。そういうノイローゼなら、漱石自身が自ら体験したこともあったのだろうと思われる。これは憶測だが、「行人」とは漱石自身のノイローゼ体験を描いたものなのではないか。

木村敏にとって「人と人との間」という概念装置は、精神病理現象を解明するための最初の手がかりになったものだが、彼はこれを、日本人のメランコリー親和性の分析を通じて導き出した。木村によれば、日本人というのは、西洋人と比較して非常にメランコリーになりやすい傾向がある。なぜそうなのか。メランコリーというのは、対人関係の気遣いに主な原因があって、他人に対して非常に気を使うことから起こる。つまり、他人に対してすまないことをしたような場合に、自責の念に駆られて意気が消沈する、そうした事態を称してわれわれはメランコリーというのだが、日本人は特にそれにかかりやすい。それは日本人が、規範の源泉を人と人との間から汲み取り、人と人との間に成立する拘束性に基づいて行動しているからだ、と木村はいうわけなのである。

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むかし、をとこありけり。人のむすめのかしづく、いかでこのをとこにものいはむと思ひけり。うち出でむことかたくやありけむ、もの病みになりて死ぬべき時に、かくこそ思ひしか、といひけるを、親きゝつけて、泣く泣くつげたりければ、まどひ来りけれど死にければ、つれづれとこもり居りけり。時は六月のつごもり、いと暑きころほひに、よひは遊びをりて、夜ふけて、やゝ涼しき風吹きけり。蛍たかう飛びあがる。このをとこ、見臥せりて、
  ゆく蛍雲のうへまでいぬべくは秋風吹くと雁につげこせ
暮れがたき夏のひぐらしながむればそのことゝなくものぞかなしき

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「ミラノの奇跡(Miracolo a Milano)」は、ネオ・レアリズモの巨匠といわれたヴィットリオ・デ・シーカ(Vittorio De Sica)にしては一風変わった作品である。戦後のイタリア社会を批判的な目で見ているという点では、「靴磨き」や「自転車泥棒」と共通するところがあるが、この二つの作品のように深刻なタッチではない。社会の矛盾に対して正面からこれを取り上げるというのではなく、風刺と言う形でこれを批判している。風刺であるから笑いがある。笑いだけではない、人々の希望や不安が幻想という形をとってシュルレアルな世界を現出している。この映画はレアリズムというよりは、シュルレアリズムと言うべき斬新さを感じさせるのだ。

今年度のGDPが0.5パーセント減との政府見通しが発表された。消費増税による個人消費落ち込みが主な原因だ。一方、アベノミクスの恩恵を受けて、大企業の懐具合は好調だ。株高で投資家の懐も潤っている。ということは、資本収益率が上昇しているということだ。

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ケプラー宇宙探査機が、ハビタブルゾーン内の惑星を新たに八個発見し、そのうちの二つは地球とよく似ていると、NASAが発表した。これで、発見された系外惑星の数は1004個となり、その中でも地球によく似た惑星の数はあわせて四個になったわけだ。

平安時代の末期に登場した絵巻物は、鎌倉時代に入るとますます盛んに作られるようになった。それらをおおまかに分類すると、四つの種類に分けることができる。物語絵巻、説話物(軍紀を含む)絵巻、寺社の縁起絵巻、高僧を中心にした伝記絵巻である。

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上の表(Economist誌から引用)は、ヨーロッパ各国におけるイスラム教徒関連のデータで、2010年におけるイスラム教徒の全人口に占める割合、及びイスラム教徒がヨーロッパ的な価値観と折りあわないと考えている人の(2013年における)割合を示している。今般イスラム教徒による襲撃事件が世界を震撼させたフランスについては、この(2010年)時点では、全人口に占めるイスラム教徒の割合は約7・5パーセントになっているが、現在の時点では10パーセントにあたる600万人にまで増加しているといわれる。

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70歳になったシャガールは、亡き妻ベラとの思い出に捧げて、一連の大作を描いた。「雅歌」と総称される五枚の絵である。雅歌とは、旧約聖書の一部で、ソロモンとその愛人「シャロンのバラ」ことシュラムとの愛のやり取りを歌ったものである。シャガールは自分自身をソロモンに、ベラをシュラムに譬えて、二人の永遠の愛の形を、この絵に込めたのだと思われるのだ。

2012年の米大統領選共和党候補としてオバマに敗れたミット・ロムニーが、次回(2016年)の大統領選に出馬する意欲を強めていると伝えられている。ワシントン・ポストとのインタビューでは、「私は過去二回、(大統領選に)立候補した。私は大統領になりたいのだ」と語ったそうだ。

安倍政権の菅官房長官がNHKの番組に登場し、沖縄の基地問題に触れて、普天間移設計画は既定方針通り粛々と進める一方、普天間基地の2019年初めまでの運用停止については、翁長知事の協力が必要だとの見解を示したそうだ。

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むかし、縣へゆく人に馬のはなむけせむとて、よびて、うとき人にしあらざりければ、家刀自さかづきさゝせて、女の装束かづけむとす。あるじのをとこ、歌よみて裳の腰にゆひつけさす。
  出でゝゆく君がためにと脱ぎつれは我さへもなくなりぬべきかな
この歌はあるが中におもしろければ、心とゞめてよます、腹にあぢはひて

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ヴィットリオ・デ・シーカ(Vittorio De Sica)の映画「自転車泥棒(Ladri di biciclette)」は、イタリア・ネオ・レアリズモの最高傑作の一つとしての評価が高い。イタリア・ネオ・レアリズモの作家たちは、第二次大戦後のイタリア社会の現実を、強い社会的問題意識を以て描いたことが特徴だとされるが、その中でもデ・シーカは最も強い問題意識を感じさせる作家であると言われる。「自転車泥棒」は、そんな彼の代表作であり、第二次大戦後のイタリア社会の惨めな現実を、冷徹な目で描いた作品である。

専門分野の学者としては異例の人気を誇るのがフランスの経済学者トマ・ピケティ。その主張の概要は、資本主義というものは基本的な傾向として、格差を拡大させることを本質としている、と主張していることだ。先年アメリカで起きた「ウォール・ストリート占拠運動」は、彼の説に鼓舞された部分が大きかったといわれる。そのピケティの講義の様子を、昨夜(一月九日)のNHKが伝えていた。それを見ると、ピケティの主張のあらましがよく伝わってくる。

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(歯槽膿漏の男)

これは歯槽膿漏のために、歯がぐらぐらになってしまった男を描いている。歯がぐらついているために、折角用意された食事を食べることができないでいる。御椀に飯がてんこ盛りに盛られ、それに箸が立てられている。また、おかずの方は一汁三菜に香の物といった具合に、この時代としては結構豊かな内容だ。食文化の資料としても価値があるといえよう。

安倍政権の沖縄県知事への対応が話題になっている。翁長知事が昨年末に上京し、当選挨拶を兼ねて、安倍首相以下の主要閣僚に会談を申し入れたところ、直接の担当官庁である沖縄開発庁の長官は応じたものの、安倍首相や菅官房長官はじめ、他に会談に応じた閣僚はなかった。また年明けにも、予算要望等で安倍政権の関係閣僚との会談を申し入れたが、安倍首相を含めて、応じた閣僚はいなかった。これを捉えて、沖縄県の地元メディアが強く批判したのは無論、おおよそのメディアが、安倍政権の大人気のなさにあきれているようだ。

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シャガールの創作意欲は晩年になっても衰えなかった。70歳を過ぎてもまだ現役ぱりぱりといった創作ぶりを発揮し、97歳で死ぬ間際まで絵筆をとり続けた。シャガールの絵は、世界中から高い評価を受け、ピカソと並んで、20世紀を代表する巨匠といわれるようになった。しかしシャガールは、そんな名声に溺れることなく、あいかわらず新人のような姿勢で自分の絵を描き続けた。しかし、画風は次第に変わっていった。

パレスティナが、今年の四月から、国際司法裁判所(ICC)の条約加盟国になる見込みだと、潘基文国連事務総長が言明した。もしそうなれば、パレスティナはイスラエルによる一連の戦争犯罪をICCに告発できることとなる。アッバース政権が当面告発を考えているのは、昨年夏のイスラエルによるガザ地区住民の大量殺戮やヨルダン川西岸で進行しているパレスティナ人の土地の収奪などだ。

「彼岸過迄」の「雨の降る日」と題した章は、松本の末娘宵子の死と送葬が主なテーマだ。まだあどけない宵子は、千代子の目の前で、まるで変死のような変った死に方をした後、火葬に付される。その火葬を描いたところが現代人の我々には興味深く映る。

精神疾患へのアプローチには、伝統的に二つの大きな流れがあった。ひとつは、精神疾患の原因を、脳など中枢神経系を中心とした身体の特定の部位の変調に求め、したがって治療方法も薬物投与などの物理的な手段が中心となる。これは、客観的あるいは科学的アプローチといってよい。それに対して、精神疾患の原因を心の変調に求める立場である。これは主観的あるいは心理的アプローチといってよい。20世紀の後半まで、この両者は互いに拮抗しあっていたのだが、近年は科学的アプローチが主流となってきて、心理的アプローチは旗色が悪くなってきたといわれる。そんななかで、心理的アプローチの有効性にいまだにこだわっているのが、精神病理学者で、しかも精神科医でもある木村敏である。

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むかし、かやのみこと申すみこおはしましけり。そのみこ、女をおぼしめして、いとかしこくめぐみつかうたまひけるを、人なまめきてありけるを、われのみと思けるを、又人きゝつけてふみやる。ほとゝぎすのかたをかきて、
  ほとゝぎすながなくさとのあまたあれば猶うとまれぬ思ふものから
といへり。この女、けしきをとりて、
  名のみたつしでのたおさはけさぞなくいほりあまたとうとまれぬれば
時はさ月になむありける。おとこ、返し、
  いほりおほきしでのたおさは猶たのむわがすむさとにこゑしたえずは

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ヴィトリオ・デ・シーカ(Vittorio De Sica)は、ロベルト・ロッセリーニと並んで、イタリア・ネオ・レアリズモの旗手といわれた映画監督である。ネオ・レアリズモは、敗戦で荒廃した第二次大戦後のイタリア社会を描き、鋭い批判意識が売り物だった。「靴磨き(Sciuscià)」は、そんな傾向の中でも、社会批判の視線が特に鋭い作品である。この映画は、戦後のイタリア社会に大量に出現した戦災孤児たちが、福祉の対象ではなく、治安維持の対象として、非人間的に取り扱われていることを、正面から描き出している。

インドでのレイプが国際的な注目を集めている中、今度は日本人女性が被害者になった。インドを研究旅行していた23歳の女性が、インド人男性五人のグループに監禁され、10日余りにわたってレイプ(性的暴行)を受けていたというのだ。この女性は自力で脱出し、警察に保護を求めた結果、犯人の五人組はすみやかに逮捕されたという。

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(痔瘻の男)

または、尻に穴多き男ともいう。痔瘻とは、蓮痔ともいい、肛門の周辺に穴があき、そこから膿がでるという病気。この絵では、膿ではなく、便が多数の穴から出ているように描かれている。男が苦痛にゆがんだ顔つきをし、女が男の尻を覗き込んでいる。

メルケルのドイツ政府が、債務危機で混乱の続くギリシャについて、ユーロ圏からの離脱を容認する方針だと伝えられている。これを聞いて筆者は、オヤと思った。容認ではなく、奨励ではないのか、と。

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シャガールが1954年から翌年にかけて描いたこの絵には「マルスの練兵場」という題名がつけられている。「マルスの練兵場」というのは、昔ローマにあった練兵場だと思われる。そうだとしたら、この絵とどのような関係があるのか、よくわからない。この絵の中には、練兵場を思わせるような光景は描かれてはおらず、恐らくはヴィテブスクと思しい街並と、パリの街景が描かれているからだ。

「週刊東洋経済」の新年号に眼を通していたら、目先の景気動向についての予測と言うか、希望的な観測のようなものを、自称エコノミストたちがおしゃべりしている中で、辛口の予測を目にした。日本の首相安倍晋三は「日本を破滅させた男」として歴史に名を残すでしょう、というのだ。言っているのはジム・ロジャーズ。あのジョージ・ソロスと並んで著名な投資家として名を知られた人物だ。

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昔、女はらから二人ありけり。一人はいやしきおとこの貧しき、一人はあてなるをとこもたりけり。いやしきをとこもたる、十二月のつごもりに、うへのきぬを洗ひて、手づから張りけり。心ざしはいたしけれど、さるいやしきわざもならはざりければ、うへのきぬの肩を張り破りてけり。せむ方もなくて、たゞ泣きに泣きけり。これをかのあてなるをとこきゝて、いと心ぐるしかりければ、いときよらなる緑衫のうへのきぬを、見出でゝやるとて、
  紫の色こき時はめもはるに野なる草木ぞわかれざりける
武蔵野の心なるべし。

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「眼には眼を(Oeil pour Oeil)」とは、復讐を奨励するイスラムの格言だが、これを題名としたアンドレ・カイヤット(André Cayatte)の映画は、ヨーロッパ人を対象としたイスラム教徒の復讐をテーマにしたものだ。イスラム教徒の復讐は、執拗で陰惨だとのイメージが欧米人の頭には染み付いているといわれるが、この映画は、そんな偏見を強化するにあたって一役買ったと思われる、いわば歴史的な作品だ。

昨年末にソニーが配給を予定していた映画に対してハッキング攻撃がなされたことをめぐり、一連のドタバタ騒ぎがあった。この映画は「インタビュー」という題名のもので、北朝鮮の「独裁者金正恩」の殺害計画を描いたものだ。その映画について、何者かによる脅迫がソニーに対して行なわれ、その内容に驚いたソニーが、映画の配給を停止するという事態に発展した。これに対してアメリカ政府が、このハッキング攻撃は北朝鮮によるものであり、その脅迫に屈して配給を停止することは、言論の自由を自ら放棄するものだ、とオバマ大統領自らがソニーを批判する事態に発展した。またもや驚いたソニーは、とりあえず一部の映画館にフィルムを配給するとともに、オンライン配信を開始した。その決断の背景には、これだけ大騒ぎになったのだから、アメリカ政府も親身になって守ってくれるだろうし、また宣伝効果も抜群で大ヒット間違いないと踏んだフシがある。

病草紙は六道絵の一部として、江戸時代には17図あったことが知られているが、現在ではそのうちの9図が京都国立博物館に収蔵されている。

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「日曜日」と題するこの絵(1954年)も、シャガールとヴァヴァとをテーマにしたものだ。右上にシャガールとヴァヴァの顔が一体的に描かれ、その左上にヴィテブスクらしき家並みが、下のほうにパリの街景が描かれている。見ようによっては、ロシアから来た男女が、合体して太陽となり、パリの街を照らしている、と見えなくもない。

漱石は「三四郎」と「それから」の中で、主人公の行動にあわせて東京の地理をかなり詳しく描いた後、「門」では一変して暗示するにとどめ、詳しく書くことはなかった。それで筆者などは、宗助の住んでいる場所を、九段下から徒歩二十分ばかりの傾斜地だろうとばかり推測するほかはなかった。ところが、「彼岸過迄」では一変して漱石は、東京の地理を再び詳しく描いている。これも久しぶりの読者サービスだったのかもしれない。

ハイデガーの哲学史上の意義についてはさまざまな評価があるが、いづれにしても、彼の思想が二十世紀の哲学に深刻な影響を及ぼしたとする点では異論がないであろう。或る意味、ハイデガーとは対極的な立場をとる廣松渉でさえ、その哲学史上の意義を高く評価している。それは、単純化して言えば、ハイデガーが、西洋哲学の伝統的な枠組を根本から覆し、まったく新しい枠組の可能性を、広く認識させたということにある。

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平成廿七年の元旦を迎えるにあたって、今年は未年だというので、羊の絵を描いて家人に見せたところ、余り似ていないという。羊はこんなに耳が大きくないし、もっとずんぐりむっくりしてかわいいはずよ、というのだ。これじゃ、たまごのおもちゃみたいだわ、とも。

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