自転車泥棒(Ladri di biciclette):ヴィットリオ・デ・シーカ

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ヴィットリオ・デ・シーカ(Vittorio De Sica)の映画「自転車泥棒(Ladri di biciclette)」は、イタリア・ネオ・レアリズモの最高傑作の一つとしての評価が高い。イタリア・ネオ・レアリズモの作家たちは、第二次大戦後のイタリア社会の現実を、強い社会的問題意識を以て描いたことが特徴だとされるが、その中でもデ・シーカは最も強い問題意識を感じさせる作家であると言われる。「自転車泥棒」は、そんな彼の代表作であり、第二次大戦後のイタリア社会の惨めな現実を、冷徹な目で描いた作品である。

筋書きは至って単純だ。失業者が溢れかえる第二次大戦後のイタリアの街(これはローマともいい、あるいは北部の中規模都市モデナのようにも思われる)。やっとのことで職にありつけた男が、必死になってその職を守ろうとする話である。その職というのは、市役所のポスター貼りというしがない仕事であって、自転車を持っていることが条件だ。男は妻と相談して、質入れしてあった自転車を何とか取り戻し、それで仕事にかかる。ところが仕事の初日に、その自転車を盗まれてしまう。自転車がなければ職を失うことになるので、男は必死になって、自転車を探しにかかる。映画は、自転車とそれを盗んだ男の手がかりを求めて、男が幼い息子と共に町中を探し回るところを、延々と映し出す。結局、探すことをあきらめた男は、他人の自転車を盗もうとして、大勢の通行人たちによって捕えられてしまう。そんな父親の姿を目撃した息子が、泣きながら父親の手を握り、父親も息子の手を握り締めて涙ぐむ。そんなふうな、簡単ではあるが、人を泣かせる話だ。

映画の中では、自転車を盗んだのは、小規模だが組織的な窃盗グループということになっている。このグループは、多くの場合盗んだ自転車を解体して、部品にして闇市に売り出す。その闇市が映し出されていたが、広場が自転車で埋まっている光景が広がっていた。デ・シーカはこの映画を、オール・ロケーションで撮影したというから、この広場の光景と言い、その他の街の姿と言い、すべて当時のイタリアの都市をそのままに映し出したものと思われる。戦後のイタリア社会の混乱した様子がありありとうかがえる貴重な記録とともなっているわけだ。

自転車を盗まれた父親は警察に被害届を出して探してくれと頼むが、警察では、そんなものは自分で探せとそっけない。そこで父親は、仲間たちに泣きこんで、一緒に探してくれと頼むのだが、盗まれた自転車は、そう簡単には見つからない。結局男は、子ども(ブルーノ)と二人だけで、自転車を盗んだ男の手がかりを求めて歩き回る。手がかりは偶然見つかる。町の中で、自転車を盗んだと思われる若い男が、年をとった男にその自転車を売りつけようとするところを目撃したのだ。若い男には逃げられてしまうので、父親は老人を執拗に追跡する。追跡をかわそうとして、老人が慈善ミサの最中にある教会に潜り込むと、一緒に潜り込んで老人を追求し、他の者から厳しく指弾されたりもするが、結局老人の姿を見失ってしまう。

荒れ果てた気持になった父親は、思わず子ども(ブルーノ)をぶったりする。ぶたれたブルーノはどうしてよいかわからずに、父親と離れて歩く。そんな子どもの姿を目にした父親は、初めて父親らしい気持ちになり、腹ごしらえにピザを食おうと言う。二人が入ったレストランは大衆向けの店ではなく、ピザなどはやっていないと言われる。二人は一番廉いチーズとワインを注文し、それを分け合って食う。隣の席ではブルジョワ風の家族が、高級そうな料理を次から次へと運ばせている。その家族には、ブルーノと同じような年頃の子どもも混じっていて、その子どもの様子を、ブルーノがうらやましそうな目で見る。この父子二人の食事の場面は、この映画の中の唯一心あたたまるシーンだ。

ところが、ひょんなところで自転車を盗んだ若者に出会う。父親は若者をひっとらえて自転車を返せと詰め寄るが、若者は、そんなものは知らぬととぼける。そうこうしているうちに、若者の仲間や近所の人々が集まって来て、父親を糾弾する。子どもが機転を利かせて警察官を連れて来るが、警察官が中に入っても事態は好転しない。結局父親は、自転車を探し回ることをあきらめてしまうのだ。

進退極まった父親は、広場の一角に子どもと一緒に腰をおろし、周囲の様子に眼を配る。すぐ近くには自転車置き場があって、そこには膨大な数の自転車が停めてある。どうからサッカー場の駐輪場らしい。サッカー場では、モデナが主催の試合が行なわれているようだ。広場の反対側の一角には、ビルの入り口に自転車が一台停めてある。父親は息子に、バスで先に行けと言って小銭を渡した後、一人でその自転車に近づき、あたりの様子に気を配ったかと思うと、やおら自転車に跨って逃げ出す。だがその瞬間を持ち主に目撃され、大声を立てられる。その声で大勢の通行人たちが集まって来て、父親は捉えられてしまうのだ。

バスに乗りそこねた息子のブルーノが、父親が大勢の人間に引き立てられていくところを見て、慌てて駆けよって来る。父親は、様々な人たちから、罵られたり、小突かれたりしている。そんな父親の様子をブルーノは心配そうな表情で見上げる。そんなブルーノの表情を見た自転車の持ち主は、もういいから放してやってくれと群衆に言う。群衆はなにやらしきりに言いあっていたが、結局父親は息子に助けられるかたちで窮地を脱することができた。

こうしてみれば、ささやかな出来事を描いたと言ってよいが、そのささやかさのなかに、男一人の大きな運命が込められているというのが、この映画のみそだろう。この時代のイタリア人は、いまとなっては、つまらぬと言いようのないことで苦悩していたのだし、そこに自分の運命をかけてもいたわけだ。だから、これは個人の矮小さを描いたものではなく、時代の矮小さを描いたものだ、というようなメッセージが聞えてくるようである。

映画の中で印象に残るシーンと言えば、活気のある闇市と並んで失業者たちの真剣なまなざし、社会に不平を抱いた人々を前にアジ演説をする活動家、庶民の苦境をよそに役所や警察がのんびりとしていること、慈善の施しを目当てに大勢の貧者が集まっている教会のミサの様子などだ。また困った時の神頼みとばかり、聖女様と呼ばれる女のもとに大勢の人々が救いを求めてやってくる様子も印象的だ。ここにはこの一家の主婦も足を運び、それを亭主が無駄だと言って罵っていたのだが、自分が不幸な境遇に陥って途方にくれると、やはり子どもを伴って救いを求めに来ることになるのだ。

神頼みの話は、戦後の日本でもよくあったことで、成瀬巳喜男(浮雲)や新藤兼人(裸の十九歳)なども映画で取り上げているところだ。









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