ミラノの奇跡(Miracolo a Milano):ヴィットリオ・デ・シーカ

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「ミラノの奇跡(Miracolo a Milano)」は、ネオ・レアリズモの巨匠といわれたヴィットリオ・デ・シーカ(Vittorio De Sica)にしては一風変わった作品である。戦後のイタリア社会を批判的な目で見ているという点では、「靴磨き」や「自転車泥棒」と共通するところがあるが、この二つの作品のように深刻なタッチではない。社会の矛盾に対して正面からこれを取り上げるというのではなく、風刺と言う形でこれを批判している。風刺であるから笑いがある。笑いだけではない、人々の希望や不安が幻想という形をとってシュルレアルな世界を現出している。この映画はレアリズムというよりは、シュルレアリズムと言うべき斬新さを感じさせるのだ。

映画の主人公は、トトと言う名の、多少智慧が遅れているが天使のように純真な心を持った若者である。彼はキャベツ畑に裸のまま捨てられていたのを、ロロッタ婆さん(エンマ・グラマティカ)に拾われて育ててもらった。そして彼が六歳の時にロロッタ婆さんが死ぬと孤児院に入れられて、そこで成長する。成長した彼トト(フランチェスコ・ゴリザーノ)は小さな手提げ袋一つを持って社会へと船出するのだが、その初日にふとしたことから乞食の爺さんと知り合いになり、その爺さんと一緒に夜を明かす。爺さんが身を寄せていたのは、ホームレスたちが寄り集まっている粗末なテント村なのだった。

トトはそのテント村に居つくようになり、粗末なテントを多少ましなものに作り変える一方、新しい小屋も作って、家のない人々を受け入れるようになる。それまでの寒々としたテント村は、たちまちのうちに活気のあるコミュニティへと変わっていく。天使のように純真な心を持ったトトは、コミュニティの人気者になり、人々の信頼を集めるようにもなる。このテント村は、ある富豪の持ち物なのだが、その富豪もトトの人柄や住人達に遠慮して、彼らが自分の土地に居ついているのを黙認している。

ところが状況を一変させる事態が起こる。テント村の土地から石油が噴出したのだ。そのことを知った富豪は、自分の土地から住民たちを追い出そうとする。住民たちはトトを先頭にして陳情に行くが、富豪はガンとして言うことを聞かない。そして、住人達がなかなか出て行かないのを見ると、私兵を雇って強制的に立ち退かせようとする。私兵は村を包囲してガス弾を投げ込む。村にはガスが充満して住人達は窒息しそうになる。

そこへ、ロロッタばあさんの霊が現れてトトに一羽の鳩をくれた。その鳩は、何でも願をかなえてくれる不思議な力を持っているのだった。この鳩の力を借りて富豪の私兵たちを撃退したまではよかったが、ハトの霊力を知った人々が、トトに願をかなえてくれと嘆願するようになる。いまや人々は欲望の塊に化してしまったのだ。そんなさまを見て、トトに心を寄せるエドウィジェ(ブルネラ・ボーヴォ)と言う娘が心配する。そうこうするうち、天使たちが現れて鳩を連れ去ってしまう。

人々が欲望に惑わされて団結の絆がゆるんだところで、富豪はもう一度攻勢をかける。いまや鳩と団結力を失った村は、富豪の攻勢の前にはひとたまりもない。人々は富豪の護衛車に詰め込まれて私設監獄に運ばれていく。だが、そこでもう一度奇跡が起こる。再び鳩が現れて人々を護衛車から解放してくれたのだ。解放された人々は、清掃員たちから貰った箒に跨って天空に舞い上がり、トトとエドウィジェを先頭にして飛び去って行く。彼らが飛び去る先は希望の星だというメッセージを残して。

この簡単な筋書きからもわかるだろう通り、これは幻想的な物語に託した鋭い社会批判だといえなくもない。戦後のイタリアの街のあちこちに出現したスラム街、そのスラムを私的な暴力で追い出そうとする富豪、富豪の暴力を前にして立ち向かえるのは人々の団結力なのに、欲望に弱い人々はいとも簡単に団結力を失ってしまう。そんな人間社会のやるせない現実は、まともな人間の目にははっきりとは見えない。それがはっきりと見えるのは、トトのような、人間社会からはみ出した者のみなのだ、というようなッセージが、この映画からは伝わってくる。

人々が箒に跨って理想の国へと飛び立って行く、というラストシーンは、なかなかファンタスティックな眺めだ。










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