木村敏と現象学的精神病理学

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精神疾患へのアプローチには、伝統的に二つの大きな流れがあった。ひとつは、精神疾患の原因を、脳など中枢神経系を中心とした身体の特定の部位の変調に求め、したがって治療方法も薬物投与などの物理的な手段が中心となる。これは、客観的あるいは科学的アプローチといってよい。それに対して、精神疾患の原因を心の変調に求める立場である。これは主観的あるいは心理的アプローチといってよい。20世紀の後半まで、この両者は互いに拮抗しあっていたのだが、近年は科学的アプローチが主流となってきて、心理的アプローチは旗色が悪くなってきたといわれる。そんななかで、心理的アプローチの有効性にいまだにこだわっているのが、精神病理学者で、しかも精神科医でもある木村敏である。

木村は1970年代から80年代にかけて、現象学的精神病理学と称する立場を展開して、日本の精神疾患研究に大きなインパクトをもたらしてきた。その説は非常にユニークでかつ迫力があり、筆者のような医学上の門外漢が読んでも面白く、腑に落ちるところの多いものであった。精神疾患を単なる心身の病というにとどまらず、人間の生き方の根本にかかわる問題として捉えるところが、一医学を超えた壮大な知の領域を感じさせるからだろう。

しかし、木村のようなアプローチは、今日では、少なくとも治療の現場では、亜流となってしまったようだ。今日では、精神疾患のうち、うつ病や癲癇が脳の変調に深くかかわりのあることが明らかになってきて、薬物治療の効果も非常に高まってきた。また、従来精神分裂病と呼ばれていた精神疾患も、今日では統合失調症と呼ばれるようになり、その発病のプロセスや治療法も次第に明らかにされるようになってきた。そんななかで、木村が展開したような心理的なアプローチは、直接に治療に結びつかない(と考えられている)こともあって、次第に省みられなくなってきた。

それでも木村は、精神疾患への心理的アプローチの有効さを軽視すべきではないと主張する。たしかに、統合失調症といわれる病気が中枢神経系におけるある種の物質(ドーパミン)の代謝の異常に原因をもち、その代謝を活気付ける処置をとることで、幻覚や自傷他害など深刻な症状を和らげられるようになってきたことは認めるが、それでもって病気の全容が把握されたことにはならない。木村によれば、分裂病を典型とする精神疾患は、心と体を包み込んだ人間存在全体にかかわる病なのであり、それが身体的にはドーパミン代謝の異常となってあらわれ、精神的には妄想や離人症といった症状として現れる。したがって、ドーパミン代謝を改善させることで、当面の症状は治まるかもしれないが、それでもって精神疾患が抜本的になおるわけでもなく、時には、そういった処置が裏目に出ることもある。やはり、ひとりの精神疾患患者を救うためには、その患者を全人的に理解し、その理解にたったうえで、治療に当たる必要がある、というのが木村の基本的なスタンスである。

そこで、木村が依拠する現象学的精神病理学であるが、これはフッサールの現象学を分析ツールとして人間の精神疾患について説明しようとするものであり、学説的にはビンスヴァンガーやヴァイツゼッカーといった人々の名と結びついている。それを簡単に言うと、精神疾患を人間関係の病理として捉える立場である。フッサールには、人間関係を間主観性の関係として捉える見方があるが、この間主観性がうまく成立しないで、正常な人間関係が結ばれないケース、それが精神疾患をもたらすとする見方である。だから、心理的アプローチといっても、そこには社会的な視点も絡んでくる。

木村のユニークなところは、この間主観性の問題を「間」という言葉で表現したことである。しかも木村はこの言葉を、人間と人間との間の関係を超えて、人間とその環境世界との係わり合いすべてについても用いた。人間は、彼を取り巻く環境世界との間で関係を取り結びつつ、無論他の人間たちとの間でも、間主観的な関係を取り結ぶ。人間というものは、それらの関係の結節点を生きることで、自分を一人の人間として形成していくのである。しかし、何らかの事情によって、この関係がうまくいかないことが起きる。それが精神疾患をもたらす基本的な要因なのだ、そう木村は考える。だから彼の精神病理学は、単に心や脳の異変を問題にするに留まらず、人間の人間としての生き方を問題にしている、といえる。彼の言葉が単に精神医学の領域を超え、哲学的なニュアンスを帯びるに至る所以であろう。

木村のいう「間」は、それ自体が自立的な存在性格を持っている。個々の人間が集まって、そこから事後的に間が生じるのではない。間は、個々の人間が生まれる前から成立していて、個々の人間はその間を泳ぎまわりながら、自分の「個」を形成していく、という関係にある。そういう意味でこの間は、構造主義者たちがいう「構造」と近い意味合いを帯びている。構造主義者たちは、この構造を、個々の人間の行動を制約する外在的な要因として捉えたわけだが、木村はそれを、場合によっては個々の人間を押しつぶし、精神疾患に至らしめる重要な要因として捉えたわけである。

「間」の中でも最も重要なのが「人と人との間」であることはいうまでもない。木村はこの「人と人との間」についての研究から自分の精神医学者としてのキャリアを始めている。「人と人との間」は、言い換えれば「人間関係」ということになろう。この人間関係が何らかの事情でうまく成立できないことから、精神疾患が生じてくる。こう木村は考えたわけである。

このように、人間関係の病理を精神疾患の基本的要因とする見方は、イギリスの精神科医レイングも主張していた。一時期日本でもブームになった彼の説を、単純化していえば、精神疾患=家族関係の病理というものである。彼は、異常な家族関係、なかでも親子間の異常な関係を、子どもを精神疾患に陥れる最大の要因とした。異常というのは、子どもにとって、どう受け取ったらよいのかわからないような親の行動をさして言う。たとえば、いかにも憎憎しげな顔つきをしながら、お前を愛しているよ、と親が子どもに言ったとする。この全く逆方向のメッセージが共存する言葉に接して、子どもは親の本意をどう受け取ったらよいか、わからなくなる。このようなことが、繰り返し起こると、子どもは自分を防衛するために身構えねばならなくなる。その身構えのひとつとして、精神疾患に逃げこむ事態が挙げられる、というのだ。

木村は、レイングの説については言及していないが、その主張の内容においては、同じようなことを言っているのだろうと思う。だが、先ほども言ったように、木村の場合には、「間」を広い意味で捉えることによって、人間と彼の生存する環境との不調和が、精神疾患の基本的な要因なのだといっているわけである。いわば、この世に自分の生きる場所を持てない、そんな途方にくれた思いが、彼を精神疾患に陥らせる。人間が精神を病むのは、そうすることでしか、世界とうまく折り合えないからなのだ。

こういうと、精神疾患の患者は、生き方に失敗した人間ということになり、彼の病んだ心は、失敗した意識に付きまとわれた心ということになる。いずれにしても、彼は人生の敗残者なのだ。しかも、その敗残は取り返しの付かない事態であって、そこから逃れる道はあまりにも狭く見える。逃れようとして無理に道を開こうとしても、うまくいくとは限らない。かえってより深刻な事態に運ばれていくかもしれない。

というわけで、木村の精神病理学には、明るい展望が開けているわけではない、ともいえる。









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