イスラム国人質事件への安倍政権の対応

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イスラム国による二人の日本人人質事件が発生し、それに関わってイスラム国側の発する映像が日本中の眼を釘付けにした。いまの所、人質のうちの一人が殺害され、もう一人の安全も深刻に危惧される状況にある。筆者はこうした動きを、固唾を呑んで見守っていた者の一人だったが、その過程での安倍政権の一連の対応には、首をかしげざるを得ないものを感じた。

まず、そもそもなぜこういう事件が起こったか、について割り切れないものを感じる。イスラム国が今回の彼らの行動を、安倍首相のイスラム国敵視に対する対抗措置として行ったと主張していることについては、割引して受け取るべきだとしても、安倍首相のエジプトでの演説が、彼らに口実を与えたことは否めない。その演説の趣旨は、イスラム国の攻撃によって苦しんでいる難民を救助することだと安倍政権は言っているが、聞きようによっては、日本政府がイスラム国に対立する姿勢を示したものだと聞こえないわけではない。実際、イスラム国では、そう聞こえたと言っているわけである。

この二人の日本人がイスラム国の人質にされていることは、前からわかっていたことだ。安倍首相にもその認識はあったに違いない。そういう状況の中で、イスラム国を刺激するような発言をすればどういう結果になるか、たいして頭を使わなくともわかるようなものだ。にもかかわらず、安倍首相はイスラム国を刺激するような言動を行った。それをイスラム国が挑発として受け取ったとしても、不思議ではない。識者の中には、イスラム国はこの二人の人質から身代金を獲得する機会をかねてから伺っていたが、安倍首相の今回の演説が、彼らに絶好の機会を与えた、と分析する者もいる。

事件発生後の安倍政権の対応にも、首をかしげざるを得ないところが多い。人質解放を最優先するのであるならそれなりの方法があったと思えるのだが、どうも安倍政権は、それとは異なったやり方を取っていたように見える。限られた時間内に事件に一定の解決をもたらそうとするのであれば、まず相手方との接触に努めるのが基本だろう。ところが安倍政権には、日本政府として相手方と接触をとろうと積極的に動いた形跡が、少なくとも外からは、見えない。安倍政権がやったことといえば、イスラム国の無法ぶりを世界に対してアピールしたことや、同盟国に対して協力を求めたことだ。その中で、相手方の要求には一切応えないつもりだなどと、これから交渉しようというのに、その交渉の条件と言うか、日本の手の中を公然と暴露するようなこともした。これでは、したたかな相手を前にして、フィフティフィフティな立場で交渉することはできないのではないか、そんな風に感じた。

また、安倍政権はヨルダンを最も頼りにするパートナーに選んだが、これは事情通に言わせればミスマッチだということらしい。ヨルダンはイスラム国とは公然とした敵対関係にあり、水面下で交渉できるようなルートは持っていないのが実情だというのだ。それに対してトルコの方は、最近イスラム国との間で人質解放に一定の成果を上げた経緯があり、イスラム国とは複数のルートでつながっていると言われる。このトルコをなぜか、安倍政権は飛ばしてしまったというのだ。

こんなわけで、安倍政権はイスラム国との交渉に入ることなく、みすみす時間を過ごし、結果として人質一人の殺害という事態を招いた。残りの一人の命運も、一層深刻な事態に直面したと言ってよい。というのも、イスラム国はこの人質をヨルダンに拘禁されている死刑囚と交換するように、要求の内容を変えてきているからだ。そうなった結果、今後日本政府は、この問題についての当事者能力を失ったといってよい。

安倍首相は、全力をあげて人質の解放に努力すると言い続けてきたし、いまでも言っている。しかし、人質の一人は既に殺されてしまったし、もう一人は日本政府の努力の及ばないところに行ってしまった。恐らく、イスラム国では、日本政府をまともな交渉相手にすることをやめたのではないか。というのも、折角交渉しようと思っても、日本政府がまともに応じてこなかったからだ、そうイスラム国側に受け取られたと思えるフシがある。

安倍首相が、イスラム国の非人道性を非難し、また、相手の要求には屈しない、といっていることは、ある意味では正しい。しかし、その正しさは、人質解放に向けての真剣な努力に裏打ちされてこそ、胸を張って主張できることだ。人質の命を救おうとするまともな努力をしないままに、相手の非ばかりこと上げするのでは、それは練達した政治家のやることだとは、到底言えない。

なお、論調の中には、安倍政権がこの事件を、集団的自衛権をめぐる議論に利用しようとしているとするものもあるが、ここでは、それについて云々することはしない。









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