漱石の権威的人間観:「行人」から

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「こうして岡田夫人として改まって会って見ると、そう馴れ馴れしい応対も出来なかった。それで自分は自分と同階級に属する未知の女に対する如く、畏まった言語をぽつぽつ使った」

これは「行人」の冒頭に近い部分で、主人公の「自分」が大阪の知人の家を訪ね、その知人の妻と向かい合った時の場面である。知人と言うのは、昔自分の家に書生として居候していた男で、その妻というのは、やはり自分の家で仲働きとして仕えていた女性である。その女性と久しぶりに会った自分は、どういう風に接してよいかわからないまま、その女性をとりあえず自分と同等の階級に属する女として取り扱った、というのである。ここには、人間関係を巡る漱石の権威的な見方が示されているといえよう。

明治時代の日本の作家で、漱石ほど権威的な人間観にこだわった者はいないのではないか。漱石の小説に出てくる主人公たちは、ほぼ例外なく、相手を階級の上下を基準にして自分と比較し、それに見合った接し方をしている。「坑夫」に出てくる未成年の主人公ですら、相手の階級を自分と比較し、相手が上だと思えば卑屈になるし、相手が下だと思えば尊大になっている。

「行人」には、そうした権威的な部分はあまり露骨には表れていないが、それでも注意深く読んでいると、主人公がいかに権威的な人間観に囚われているか、それがよく伝わってくる。

たとえば、上述の知人岡田との関係。岡田は母の甥と言うことになっており、自分にとっては年上の従兄にあたるわけだが、岡田は自分の家の書生であったことの手前、自分に対して目下として振る舞ってきた。そして自分もまたそれを当然のことのように受け止めていた。だから、岡田が第三者の前で、自分と同等の身分か、場合によっては自分より目上の者のように振る舞うのに接すると、それを意外に感じ、また多少の不服も感じる。その感じ方が、権威的な人間観に裏打ちされているのはいうまでもあるまい。

漱石の小説には、書生と並んで下女が必ず出てくる。「門」の主人公宗助の家のように、その日暮らしの貧しい世帯ですら下女を置いている。これは、明治時代には家事が大変であったことに理由があるのだと思われるが、それ以上に、権威的な社会のあり方と言うものに根差していたことなのだろう。つまり、一定以上の階級に属する人間は、下女を置くのが当たり前なのであり、それを置けないのは、自分が下層階級の人間だということを公言しているに等しい。それ故、多少の無理をしても下女を置く、と言うことなのではないか。最も、当時の下女は、費用的には大した負担にはならなかったようだ。三食付で、幾分かの小遣い銭を与えればそれですむ。下女の方も、主人の家で働いて賃金を貰っているというような意識より、主人の家で面倒を見てもらっているといった意識でいたようである。

だから、主人と下女との関係は、ドライな契約関係というよりは、家族の延長のような関係であった。この小説の中には、お貞さんという下女の結婚をめぐって、自分の両親たちがあれこれ骨を折る話が出てくる。これは、主人と下女との関係が、契約関係ではなく身分的な結びつきの関係であったことを物語るのであろう。

結婚と言えば、それは男女の自由な結びつきというよりは、家同士の結びつきであった。それ故、「それから」では、代助の父親は息子を地方の名士の娘と結婚させることで、自分の社会的な地位の向上を図ろうと企んだりもする。「行人」の中では、自分がある女と見合いしたと両親に話した途端、両親の方では、肝心の女性本人よりも、彼女が属する階級や、その家の財産のことばかりを気に掛ける。これなども、彼らがいかに権威的な人間観に囚われているかということの表れと言えよう。

漱石が小説を書いていた時代は、明治の御一新から幾許も経っていない時代であったから、人々の意識には、徳川時代の封建的な考え方がまだ色濃く残っていた。そしてその封建的な考え方の最たるものとしての権威的人間観を、漱石自身も共有していたということなのだろう。

だが、同時代の作家と比較して、漱石の権威的人間観は行き過ぎたものがあるのではないか。たとえば、数年年長の森鷗外と比較しても、そんな感じを受ける。鴎外の小説には、権威的な人間観が露骨に現れているところは殆どないと言ってよい。








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