伊勢物語絵巻六十段(花たちばなの香)

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むかし、をとこありけり。宮仕へいそがしく、心もまめならざりけるほどの家刀自、まめに思はむといふ人につきて、人の国へいにけり。この男、宇佐の使にていきけるに、ある国の祇承の官人の妻にてなむあると聞きて、女あるじにかはらけとらせよ、さらずは飲まじといひければ、かはらけとりていだしたりけるに、肴なりける橘をとりて、
  さつき待つ花たちばなの香をかげばむかしの人の袖の香ぞする
といひけるにぞ思ひいでて、尼になりて山に入りてぞありける。

(文の現代語訳)
昔、男があった。(その男が)宮仕えに忙しく、妻に愛情を注ぐこと薄かった時期に、妻が、あなたを大切にしましょうと言い寄ってきた男について、他国へと行ってしまった。この(もとの)男は、(後に)宇佐の使いとして(豊前へ)出かけて行ったが、その途上(自分のもと妻が)、ある国の接待役人の妻になっていると聞いて、(その家で接待を受けた時に)女主人に御酌をさせよ、でなければ飲まん、といったところ、(もと妻は)盃を取って出したのだった。すると男は、肴にそえられた橘の実をとって、
  五月になるのを待っている花たちばなの香りをかぐと、むかしの人の袖の匂いが漂ってきます
と歌ったので、女は昔のことを思い出して辛くなり、尼になって山の中で暮らしたのだった。

(文の解説)
●まめ:誠実、●家刀自:家の主婦、●人の国:他人の国、他国、●宇佐の使:宇佐神宮への使い、皇室の重要な行事の際、朝廷から宇佐神宮に幣帛をささげるために使わされた使者、●祇承の官人:朝廷からの使者をもてなす役人、●かはらけ:素焼きの杯、●飲まじ:飲まないつもりだ、「じ」は打消しの決意をあらわす助動詞、●肴:酒のつまみ、●橘:橘の実は蜜柑の一種、●思ひいでて:昔のことを思い出して

(絵の解説)
宇佐の使者の求めに応じて、女主人が盃を差し出しているところ。外に控えているのは使者の従者であろう

(付記)
「さつき待つ」の歌は、古今集夏の部に載っている詠み人知らずの歌。古歌であろう。その歌を聞かされた元妻が、眼の前にいる男とのかつての生活を思い出して、心が苦しくなるというのは、いかにも心細い限りだ。ましてや、己のことを恥じて出家するようでは、なんのためにこの男を捨てて、別の男について来たか、わけがわからなくなるというものだ。









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