富岡製糸場を見て伊香保温泉につかる

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富岡製紙場の見物と伊香保温泉での昼食をセットにしたツアーを東武が募集しているというので、今子を誘って参加してみた。浅草発7時40分発の特急両毛号で太田まで行き、そこから観光バスに乗り換えて、ツアーコースを一巡する。富岡製紙場に着いたのは、10時半ごろのことだった。早速、ガイドの女性に案内されて、製紙場内を見物して廻った。

場内は、操糸場と言われる工場本体とそれに隣接する東西二棟の倉庫、倉庫に囲まれた乾燥場及び諸々の付属施設からなっている。このうち、操糸場と二棟の倉庫が国宝に指定され、場内全体が世界遺産に登録されているという。乾燥場の建物は、昨年の暮に降った雪の重みで、つぶれてしまっていた。

ガイドはまず、建物群の外観を逐次案内し、建設の経緯や建築技術などについて丁寧に説明した。明治初年の日本には、まだ近代技術はなかったので、当時の日本の伝統技術を援用するような形で施行されたという。例えば煉瓦。当時の日本にはレンガを焼く技術はなく、瓦職人の技術を活用したそうだ。その時の建物が、100数十年を経た現在まで堅牢のまま残っているのは、彼らの技術の確かさを物語るものだろう。煉瓦には、瓦職人のトレードマークが刻印されていた。

外回りを一巡したあと、操糸場の内部に立ち入った。柱のない巨大な空間で、糸繰り機が二列に並んでいる。今あるこの機械は、近年日本で製造されたものだが、第一号機はフランスから輸入したものだったそうだ。いつか見た映画「レ・ミゼラブル」の中に、フランス人女性労働者が、製紙機械を前にして働いている場面があったと思うが、そのフランスの糸繰機はフランス人女性を想定して作られているので、これを日本に導入するについては、背の低い日本人女性向けに改造したそうである。

場内には、工女第一号として活躍した横田英の写真が飾られていた。英は松代藩の中級武士の娘で、当時富岡製紙場の工女募集責任者をしていた父親の意向で、ここに送られてきたのだそうだ。できたばかりの富岡製紙場は、製糸工場と言うより、製糸技術を教えるための教育機関のようなものだったらしく、したがって英らは、女工哀史で語られたような過酷な労働とは無縁だったようだ。彼女は、ここで一年あまり研鑽した後、養蚕地帯たる故郷にもどり、そこで近代的な製糸技術の指導者になったということだ。

筆者などは、日本の製糸業と言えばすぐに「女工哀史」が浮かんでくるほど、過酷な労働実態が思いうかぶのだが、ガイドの説明によれば、富岡に限っては、それとは無縁だったという。しかし、製糸場四代目の経営者である片倉は、岡谷の製糸場も経営していたわけで、岡谷では「女工哀史」が指摘するような事態があったらしい。同じ経営者が動かしている製糸場が、極端に異なった労働管理をしていたとは考えがたい。どうも、富岡の場合には、設立間もない頃の、技術指導機関としての在り方が理想化され、それが全時期にわたって適用されていたと拡大解釈されているフシがあるようだ。

ガイドさんも、富岡製紙場内で現役死亡した若い女性が50人以上いたという事実は否定しておらず、その彼女らの死因が殆ど結核だったことから推しても、労働環境の過酷さは完全に否定できないようだ。

ところで、横田英は信州松代の出身だったが、松代からは彼女の外に多くの若い女性がやって来ていた。その女性らの楽しみは、工場側の設定した階級制度の中で出世することと、それに伴って賃金が上ることだった。そこへ長州から来た女性たちが加わったが、彼女らはたいした努力もないままに次々と出世して、高い賃金を得るようになったので、松代から来た女性たちは、差別待遇されたといって怒ったそうだ(以上ガイドさん談)。明治初年における長州様の威光は絶大だったから、長州出身の女工たちもその恩恵にあずかったということだろう。

ガイドさんの案内を受けている間に見物時間が満ちてしまったので、土産物を見るいとまもなく、そそくさと退場した。その折に駐車場への道を間違えて、とんでもない遠回りをすることとなり、バスに同乗していた皆さんにご迷惑をかけてしまった。

伊香保温泉には午後一時頃着いた。古久屋という旅館で昼食だ。ところがバスを降りると、同乗していた人々はみな違う方向に行ってしまって、古久屋に入ったのは我々二人だけだった。仲居さんに聞くと、このツアーの昼食客は我々二人だけだという。狐につままれた思いでいると、仲居さんに待合室のラウンジに案内され、そこで食事を振る舞われた。待合室であるから、テーブルに椅子ではなく、ソファにガラスの台だ。そこへ、松花堂弁当と味噌汁が運ばれてきた。まあ、文句をいわず、ビールでも飲みながら食うことにしよう。

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腹がいっぱいになったところで、伊香保名物の石段を散策した。この石段は400年前からあるそうで、偶然かどうかは知らぬが、ちょうど365段あるという。個々の石の段差がけっこうあって、上るのに骨が折れる。上りきったところには神社がある。神社周囲には消え残った雪が凍っている。境内の一角で、若い母親が子どもを叱る声が聞こえる。見ると、子どもが買ってもらったばかりのおべべを汚してしまったらしい。子どもを叱りはじめた母親は、とまることができないとばかり、いつまでたっても叱りやまない。母親に叱られた子どもは、始めのうちは神妙な顔をしていたが、そのうちに辛くなってべそをかき始めた。

石段の途中に「石段の湯」という外湯がある。今日は、始めからこの湯につかることを目論んでいたので、あらかじめタオルを用意しておいた。入湯料410円を支払って中に入ると、さして大きくもない浴場に、大勢の人が入っている。閑散期の今にしてこんなに混んでいるのなら、シーズンの頃にはどうなってしまうのだろうと、余計なことを思いながら湯に浸かった次第だ。

こんなわけで、今日はまずまずの一日になった。浅草に着いた後、二人で飲み直したのは言うまでもない。鮨屋通りにある寿司初という店に入り、寿司をつまみながら冷酒を飲んだ次第だ。





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