精神病と人類:中井久夫の人間類型論

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木村敏は、分裂病(統合失調症)やうつ病などの精神疾患が、精神の正常な状態とは絶対的に断絶した精神の異常なのではなく、平均値(多数者の状態)からの相対的な逸脱なのだと主張した。だからといって木村は、誰もがそうした状態になるとは言わなかったわけだが、同じく精神病理学者である中井久夫は、人は誰でも分裂病やうつ病などの精神病になる可能性を秘めていると主張した。こうなると、精神疾患は精神の異常というよりは、精神状態のバリエーションの一つだということになる。そのバリエーションが、中間値から多少ずれているに過ぎない、というわけである。

人は誰でも精神病になる可能性がある、という場合、どのような人がどのような精神病になりやすいのかが問題になる。そのことについて中井は、人にはある一定のタイプがあって、特定のタイプの人は特定の精神病になりやすいのだと言った。そのタイプには二つある。一つは分裂病親和型の人間類型であり、もう一つは強迫症親和型の人間類型である。前者の類型に属する人は分裂病(統合失調症)になりやすく、後者の類型の人はうつ病になりやすい。

こう言われると、読者はクレッチマーの人間類型論を思い浮かべるだろう。クレッチマーの場合には、体型と気質および精神病との間に、一定の関連付けをした。痩せ型の人は分裂気質と結びつきやすく、分裂病になりやすい。肥満型の人は躁鬱気質と結びつきやすく、躁うつ病になりやすい。筋骨型の人は粘着気質と結びつきやすく、癲癇になりやすい、といった具合である。

クレッチマーは、これらの組み合わせは相互必然的に結びついているわけではなく、特定の体型と特定の気質との間にはさまざまな組み合わせの余地もある、また、一定の組み合わせがそれに対応する精神疾患に直結しているわけでもない、と言っている。あくまでも、傾向的な値だというのである。

これに対して中井は、二つの親和型とそれに対応する病気との間には、かなり強い結びつきがあると主張している。分裂病親和型の人が罹るのは分裂病であってうつ病ではない。強迫症親和型の人が罹るのはうつ病や強迫神経症であって、分裂病ではないというわけだ。

中井のユニークなところは、この二つの人間類型の起源を、人類の歴史のうちに求めていることだ。人類は、大昔の狩猟採集文化から、農耕文化へと進化(あるいは転換と言ってもよい)を遂げてきた。狩猟採集分化の段階における人類には、分裂病親和型のタイプが優勢で、強迫症親和型の人間類型は存在する余地がなかった。強迫症親和型の人間類型が登場するのは、農耕文化が普及して以降のことである、と中井は言うのである。

狩猟採集分化時代の人間にとってものをいうのは、動く者についての認知能力、あるいは兆候的なものに対して敏感なことであると中井はいう。そして、そうした能力を可能にするのは、「微分回路」だという。微分回路というのは、「入力の時間的変動部分のみを検出し、未来の傾向予測に用いられる」思考回路のことである。そうした能力を発揮することで、狩猟採集民の人は、獲物をいち早く認知し、それがどのような行動をとるかを瞬時に判断し、適切に行動することで獲物をしとめることができる。こうした人々の関心は常に現在および未来にある。その点で、木村の言う「アンテ・フェストゥム」と通ずるところがある、と中井自身が言っている。

「微分回路」に対立するのは「積分回路」である。積分回路というのは、過去全体の集積にかかわる。微分回路のように傾向の把握には適していないが、ノイズの吸収力が抜群である、と中井は言っている。

積分回路がものをいうのは、時間の積み重ねが問題になる文化においてである。そのような文化が、農耕文化にほかならない。農耕とは、ある意味、時間の営みなのである。人々は時間のスケジュールに従って農耕の営みに従事し、それで生きていかなければならない立場にいる。

では、農耕文化の段階で、なぜ強迫症親和型の類型が登場したのか。中井はこの類型をうつ病と結びつけて論じているので、ここでもうつ病を想定しながら議論を進めると、こうなる。うつ病というのは、木村もいっているとおり、秩序へのこだわりに根本的な要因がある。大事にしていた秩序が崩壊した時に、取り返しの付かないことになったといって深刻な後悔にさいなまれる、というのがうつ病の基本的病態である。そうした秩序というのは、過去の時間の積み重ねとして生じてくるものである。だから、うつ病とは、ある意味、時間の病と言えなくもない。ところで、時間という観念が成立したのは、農耕文化の段階においてなのである。狩猟採集段階においては、過去はあまり問題にならず、したがって時間の流れといったものも、大した意味を持たなかったのだ。

ここで木村を引っ張り出してきたのは、ほかでもない。強迫症親和型と精神疾患との間の関連について、中井自身、あまり突っ込んだ議論をしていないからだ。強迫症親和型といえば、当然、神経疾患としての強迫神経症が問題になるはずだが、中井がこの文脈で問題に取り上げているのは、うつ病のほうである。しかし、うつ病と強迫症との間には、かならずしも強い結びつきがあるようにも見えない。一方、強迫症の症状は分裂病(統合失調症)にも見られる。というわけで、強迫症親和型の類型とうつ病とを一対一で結びつけた中井の議論には、多少の無理があるといえよう。

ともあれ、分裂病親和型を狩猟採集分化と密接に関連させた中井の議論には興味深いものがある。狩猟採集文化にあっては、分裂病的な気質は、社会にとって異常とは認知されなかった。それは、狩猟採集分化が、微分回路がものをいうような社会だったからである。ところが、農耕文化の段階になると、微分回路は意味を持たなくなり、かわって積分回路が重要になる。そのような社会においては、分裂病的な気質はノイズでしかない。こんな風に考えると、精神病は人類の生活様式と密接に結びついた概念だということができる。

以上は、分裂病とうつ病とを、歴史の中に位置づけながら論じた部分だが、今日の地球上には、狩猟採集分化の面影を濃厚に残している文化もあり、そうした文化にあっては、いまだに微分回路がものをいい、したがって分裂病親和型の文化も残っている、と中井はいう。アフリカのエチオピアがそうだというのである。エチオピアは、中井の知る限りもっとも非脅迫的な社会で、秩序に対する盲愛というものは見られない。一方、秩序に異常なほどこだわる文化もある。日本もそうかもしれないが、ベトナムの場合にはもっと徹底している。秩序偏愛という病気ではないかと考えられるほどである。それも、ベトナムが非常に進んだ農耕文化であることを思い合わせれば、不思議ではないということになる。

ところで、うつ病を文化と関連させて論じたものに、エーレンライヒの説がある。エーレンライヒの疫学的研究によれば、うつ病が多く見られるようになったのは、17世紀以降のことだという。彼女はそれを、ピューリタニズムの勃興と関連づけて論じている。ピューリタニズムは、人間を共同体から切り離して、直接神と向かい合わせるように強制したわけだが、それが人々をメランコリーに追い込んだというのである。

こうしてみると、精神疾患と文化との関連を論じるには、色々な切り口があるのだとわかる。







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