公正としての正義:ジョン・ロールズの正義論

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ジョン・ロールズが正義の概念を巡って展開した一連の議論は、とりあえずは、アメリカのリベラリズムといわれる政治的潮流に理論上の根拠を与えるという歴史的意義をもっていたといえる。だが、それにとどまらず、政治哲学の議論に新たな方向性を満ち込み、政治哲学全体を活性化させる役割をも果たした。20世紀の政治哲学、とくに英米圏のそれは、長い間功利主義の罠にはまりこんで、沈滞していたのであるが、ロールズの正義論によって、眼を覚まされたといわんばかりに、俄に議論が活性化したのである。

ロールズの主著「正義論」が出版されたのは1971年のことである。60年代のアメリカでは、J・F・ケネディの登場にも刺激されて、リベラリズムが大きな流れとなりつつあった。アメリカのリベラリズムは、30年代以降のニューディールと言う形でも現れていたわけであるが、明確な政治理念として自己主張し始めるのは、やはり60年代以降である。ロールズの正義論は、こうしたリベラリズムの流れを、政治哲学の立場から根拠づけしたという意味合いを持っているわけである。

もっとも、ロールズはケネディの登場に代表されるような政治的な実践を後追いする形で理論化の作業を行ったわけではない。今日「公正としての正義」という形でまとめられている論文集の中の冒頭の論文(公正としての正義)は、ケネディ登場以前に書かれたものである。それ故、政治の実践の場におけるリベラリズムと、ロールズが学問的に展開したリベラリズム的な正義論とは、同時並行的に進んでいたと言えるわけである。ということは、60年前後のアメリカに、リベラリズムを目指すような、大きなうねりがあったということなのだろう。

ここでは、上記論文集「公正としての正義」を材料にして、ロールズの正義論の特徴と、その現実政治的な意味合いについて論じてみたいと思う。

この論文集では、どの論文においても、正義についての定義が繰り返されている。その定義は、彼の主著「正義論」でも引き続き繰り返されるわけであるが、とりあえずは、この論文の中の次の文章に基づいて、彼の正義に関する定義を見てみよう。

「私が用いる正義の概念は、さしあたり、二つの原理と言う形で述べることができよう。すなわち、第一に、ある制度に参加するかそれによって影響を受ける各人は、すべての人々に対する同様な自由と相容れるかぎり、最も広範な自由への平等な権利をもつ。第二に、制度上の構造によって規定されたりそれによって促進される諸々の不平等は、それらがすべての人の利益となるであろうと期待するのが合理的でないかぎり、また、それらの不平等を伴っていたり、あるいはそれらの原因となりうる諸々の地位や職務が、すべての人に開かれていないかぎり、恣意的である。すなわち、自由、平等、共通の利益に貢献するサーヴィスに対する報酬に関連するものとして、正義の概念を表現している」(ロールズ「公正としての正義」所収"憲法上の自由と正義の概念"田中成明訳)

以上は、ロールズが正義の二原理と呼んでいるものの概説であり、彼の正義論の中核と言えるものである。ロールズは、第一の原理によって、平等な自由という表現を使うことで、政治哲学の中心概念である自由と平等とを基礎づけ、第二の原理によって、不平等が許されるための条件を示し、それによって、現実の社会では不可避である不平等とか格差とかいう事態が、正当化されるための条件を提示しているわけである。第二原理の前段は、「格差原理」と呼ばれるようになるものであり、後段は主として機会の平等に現れる公正さについての議論である。

この定義から浮かび上がってくるのは、平等と公正についてのロールズの強調である。アメリカの保守主義の理論的支柱となっていた功利主義的な思想においては、平等は軽視され、また公正よりも効用が重視される傾向が強かった。それに対してロールズは、平等を単なるお題目ではなく、民主主義にとっての核心的な要素として位置付けたわけだが、その際に、社会契約論をベースにしながら、彼独自の操作概念(無知のヴェールなど)を用いて、平等が民主主義的な制度にとっていかに核心的な要素であるかを明らかにした。一方、公正ということに関しても、民主主義的な制度が安定的に機能するための、不可欠の要素だとした。

公正の概念は、ロールズの議論の核心をなすものである。それは、とりあえずは、功利主義に対する批判の武器として現れる。功利主義の議論は、効用の最大化を善とするものであるが、この議論を突き詰めると妙なことになるとロールズは言う。効用を重視する議論では、ある人々の効用の和が、他の人々がそれによって被る苦痛よりも遥かに大きく、社会全体としてみると、効用が苦痛を上回るなら、その効用の追及は理屈にかなっているとするのであるが、これがもし議論として通るのなら、奴隷制も許されるということになる。何故なら、奴隷所有者の効用の和が、奴隷の苦痛の和を上回ることが証明できれば、その社会は奴隷所有者の利害を追求することに何らの不都合をも感じないであろうからである。だが、それは間違っている、とロールズは言う。奴隷制度そのものが、反道徳的なのであり、その反道徳的な制度を前提として議論を行うこと自体がナンセンスだからだ。そのわけは、この議論が公正に著しく反しているからだ、そうロールズは言うのである。

よく問題となる「格差原理」は、ロールズの現実主義的なスタンスをよく反映している部分だ。この原理は、人間社会に不平等が存在するのは避けられないとする現実的な認識に立っている。人間は個人に備わった能力やあるいは出生などの偶然的な要因によって、不平等になるのは避けられないし、またそのこと自体について、不平を言う人も多くはない。かえって、何でもかんでも差別を認めないということになれば、社会は停滞するであろう。だから、人々が能力に応じて、不平等な道を歩むのは避けられない。だから問題は、どのような条件が整えば、この不平等が許容されるのか、それを見極めることだ、とロールズは言う。

そこでロールズが持ち出すのが、次のような議論なのである。すなわち、「諸々の不平等は、それらがすべての人の利益となるであろうと期待するのが合理的」である場合に許容されるという議論である。これは、不平等が、ある人の効用が他の人の犠牲によってもたらされる場合には許容されないが、その効用の増加が他の人、この場合には社会の最も弱い人々、の利益にもなるような場合には許されるというものである。例えば、能力のある人が新しい技術革新に成功し、そのことで個人的な資産を築いたような場合、その効用の増大によって、社会の最も貧しい人々も恩恵を受けるのなら、そのような場合には不平等は許容される、というより、その場合にのみ不平等は許容される、そうロールズは言うのである。

この議論が、アメリカのリベラルの政治思想に非常に親縁性をもつことは、一目瞭然であろう。

第二原理後段の「機会の平等」については、ロールズの議論は、通常の「機会の平等」論よりも大分踏み込んでいる。通常の議論では、形式的な平等が保障されていればそれで足りるというものが多いが、ロールズは、それでは満足しない。平等は実質的でなければならない。実質的な平等を確保するためには、弱者に対して下駄を履かせてやる必要がある場合もある。したがって、所謂アファーマティヴ・アクションについては、この実質的な平等を保障するものとして、ロールズはこれを、積極的に評価するわけである。








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