2015年3月アーカイブ

内田樹の著作「寝ながら学べる構造主義」は、「寝ながら学べる」とうたってあるだけに、非常にわかりやすく書かれている。これなら、たしかに布団の中で読んでもわかりそうな気がする。書いてあることが、子供でも分かるほど単純なことだというわけではない、書かれている内容は、話題が哲学のことだから、結構複雑だ。その複雑なことを、わかりやすく噛み砕いて書いてあるから、寝ながらでも読めそうな気がするのだ。

s09.1.jpg
(四代目松本幸四郎の山谷の肴屋五郎兵衛)

山谷の肴屋五郎兵衛は、宮城野・しのぶの敵討ちに手助けする侠気のある人物である。第五幕の山谷の仮宅の場面で登場する。自分の家の二階を妓楼舞鶴屋に貸しているが、そこへ遊女しのぶの姉宮城野が訪ねてくる。姉妹の話を聞いた五郎兵衛は、なんとか彼女らに本懐をとげさせてやろうと思い、色々と思案をめぐらす。

新聞調査会が面白いアンケート調査結果を発表した。最も有名な日本人は誰だと思うか(真っ先に思い浮かぶ日本人の名前は何か)という質問にたいして、欧米では昭和天皇、アジアでは安倍晋三という名が返って来たというのだ。

150321.cat.jpg

キャッツアイ星雲(NGC6543)は、りゅう座にある惑星状星雲である。惑星状星雲というのは、恒星が寿命を迎えた後、超新星とならない場合にとる形の天体である。一定以上の質量の恒星は、寿命を終えると超新星爆発を起こすとされるが、質量の小さいなどの理由で超新星爆発を起こさないものは、赤色巨星となったあとに周囲に拡散していく。その際に放出された大量の物質が、白色矮星となった中心核の光に照らされて、まとまった天体として見える。

1614.1.jpg

「ラオコーン」は、ギリシャ人であるエル・グレコが、ギリシャ神話に題材をとった唯一の作品である。この神話を題材にした彫刻が1世紀後半に作られたが、それが16世紀初頭に出土してローマのヴァチカン内に置かれていた。エル・グレコはその彫刻をもとにして、この絵を作ったのだと考えられている。

米紙ワシントン・ポストが、安倍総理へのインタビューの全容を、3月18日付のコラムで紹介した(David Ignatius's full interview with Japanese Prime Minister Shinzo Abe )。安倍総理が4月に訪米し、上下両院合同集会で演説する事態を前に、安倍総理の発言がどのようなものになりそうか、事前にチェックしておきたいという趣旨のようだ。

ise-082.jpg

むかし、惟喬の親王と申す親王おはしましけり。山崎のあなたに、水無瀬といふ所に宮ありけり。年ごとのさくらの花ざかりには、その宮へなむおはしましける。その時、右の馬の頭なりける人を、常に率ておはしましけり。時世経て久しくなりにければ、その人の名忘れにけり。狩はねむごろにもせで、酒をのみ飲みつつ、やまと歌にかかれりけり。いま狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝を折りてかざしにさして、上中下みな歌よみけり。馬の頭なりける人のよめる。
  世の中にたえてさくらのなかりせば春の心はのどけからまし
となむよみたりける。又人の歌、
  散ればこそいとど桜はめでたけれ憂き世になにか久しかるべき
とて、その木のもとは立ちてかへるに日ぐれになりぬ。御供なる人、酒をもたせて野よりいで来たり。この酒を飲みてむとて、よき所を求めゆくに、天の河といふ所にいたりぬ。親王に馬の頭、大御酒まゐる。親王ののたまひける、交野を狩りて、天の河のほとりに至るを題にて、歌よみて盃はさせ、とのたまうければ、かの馬の頭よみて奉りける。
  狩り暮らしたなばたつめに宿からむ天の河原に我は来にけり
親王、歌を返すがへす誦じたまうて、返しえし給はず。紀の有常御供に仕うまつれり。それが返し、
  一年にひとたび来ます君待てば宿かす人もあらじとぞ思ふ
帰へりて宮に入らせたまひぬ。夜ふくるまで酒飲み、物語して、あるじの親王、酔ひて入りたまひなむとす。十一日の月もかくれなむとすれば、かの馬の頭のよめる。
  あかなくにまだきも月のかくるるか山の端にげて入れずもあらなむ
親王にかはりたてまつりて、紀の有常、
  おしなべて峰もたひらになりななむ山の端なくは月も入らじを

de02.m1.jpg

フリッツ・ラングが1931年に作ったドイツ映画「M」は、サイコスリラー映画の先駆的作品という評価が高い。だが、今日のハードボイルドなサイコスリラー映画を見なれている我々現代人の眼から見ると、多少ルースなところが目立つ。殺人犯が異常な性倒錯者というところはサイケデリックな気がしないでもないし、その犯人が追いつめられて行く過程がスリリングに見えなくもないが、何せ全体が間延びして、スリラーと言うよりは犯人追跡劇といった感じが強い。

150320.magelan.jpg

小マゼラン雲(Small Magellanic Cloud)は、大マゼラン星雲とともに、天の川銀河の伴銀河である。南半球からしか見えないが、肉眼でも(雲のようにぼんやりとしてではあるが)見えるので、南半球ではポピュラーな天体である。名前のマゼランは、この天体を最初にヨーロッパ世界に紹介したマゼラン船団にちなんでいる。

s08.1.JPG
(中山富三郎の宮城野)

松下造酒之進の二人の娘のうち姉の宮城野。これは第五幕の山谷の仮宅の場面で、遊女に身を売った妹のしのぶを訪ね、敵志賀大七の手がかりを得ようとするところだ。

三年ほど前に「共食い」で芥川賞をとった作家田中慎也の新作「宰相A」がベストセラーになっているそうだ。題名が暗示しているように、この小説はある国の宰相、つまり首相の言動をテーマにしているのだが、その首相というのが、誰が読んでも安倍晋三のことだとピンとくる。その安倍晋三が、この小説の中では、全体主義の権化のように描かれているというので、日頃安倍晋三の言動に、親愛の感情を覚えている者も、忌避の感情を覚えている者も、こぞって関心を掻き立てられるということらしい。

1612.JPG

エル・グレコは、1607年に、トレドのサン・ビセンテ聖堂の礼拝堂のために装飾画の作成を請け負った。この礼拝堂は、ペルーで財産をなしたイサベル・デ・オバーリエによって創立されたもので、エル・グレコはこの仕事をするにあたっては、彼女の事績を大いに考慮してやった。祭壇ヴォールトに嵌め込まれた衝立に、ここに提示した絵を飾るほかに、左右の壁にはイサベルの夫ペテロにちなんだ聖ペトロの肖像とトレドの聖人イルデフォンドの肖像を配し、天井には聖母のエリザベツ訪問の絵を配した。エリザベツは、スペイン語ではイサベルという。

150319.chikubu.jpg

琵琶湖に浮かぶ竹生島は、安芸の宮島、相模の江の島と並んで日本三弁財天と呼ばれ、古くから弁天信仰の拠点として知られてきた。能「竹生島」は、その弁天信仰に取材した作品で、弁財天と琵琶湖の龍神とが、参詣にやって来た朝臣の前に現れ、国土鎮護を約束して舞うというものである。

朝日が「こころ」に続いて再連載していた「三四郎」を、筆者は「こころ」の時と同様毎日欠かさずに読み続けた。連載で読むというのは、単行本で読むのとはまた違った趣がある。普通は連載で読んだ後に、その余韻を再び味わいたくて、単行本になったものを読み返すという段取りをとるもので、一度単行本で読んだことのあるものを、再連載されたもので読み返すのはおかしなことだと思われないでもないが、やはりそこにはそれなりの趣がある。実際筆者は、毎日、初めて読む文章のように、再連載された文章を味読したものである。

v838.jpg

写真(NASA提供)は、一角獣座にある特異変光星V838モノセロティスと言う天体。2002年に初めて観測された。当初は超新星爆発と思われたが、現在では、超新星爆発と通常の新星爆発との中間の現象と考えられている。初観測以来、観測が継続されているが、規模が大きくなったり、逆に小さくなったり、10年余りの短い期間に、複雑な現象を見せている。

s07.1.jpg
(三代目市川高麗蔵の志賀大七)

写楽は、寛政六年五月の桐座の舞台「敵討乗合話」に取材した大判錦絵を、合せて七枚描いた。本舞台から六枚、脇舞台の「花菖蒲思簪」から一枚である。「敵討乗合話」は、二つの仇討狂言「敵討巌流島」と「碁太平記白石噺」をミックスしたものらしいが、この時の舞台では、「碁太平記白石噺」のほうが中心になっていたようだ。

西田幾多郎の「純粋経験」の概念にはユニークなところが二つある。一つは、西田がそれを、新カント派の意識の所与としての現象やベルグソンら直感主義者の直感とは違って、単なる思惟の材料ではなく、それ自体が(上田閑照の言葉で言えば自発自展する)実在だと捉えていること。もう一つは、思惟もまた純粋経験の一契機、というか純粋経験そのものだと捉えていることである。

辺野古の問題を巡り、沖縄の翁長知事が、埋め立て作業に関連する岩礁破砕許可の取り消しを打ちだしたところ、安倍政権は、行政不服審査法にもとづく審査請求をする方針を採用、併せて知事の移設作業停止指示を取り消すことを求めた。しかも、いつ出るかわからない採決が確定するまでの間、指示の効力を止める執行停止の申し立てを、所管官庁に行わせた。

ise-081.jpg

むかし、左の大臣いまそがりけり。賀茂河のほとりに、六条わたりに、家をいとおもしろく造りて住み給ひけり。十月のつごもりがた、菊の花うつろひさかりなるに、紅葉のちぐさに見ゆるをり、親王たちおはしまさせて、夜ひと夜酒飲みし遊びて、夜明けもてゆくほどに、この殿のおもしろきをほむる歌よむ。そこにありけるかたゐおきな、板敷のしたにはひありきて、人にみなよませはててよめる。
  塩竃にいつか来にけむ朝なぎに釣する船はここに寄らなむ
となむよみけるは。陸奥の国にいきたりけるに、あやしくおもろしき所々多かりけり。わがみかど六十余国のなかに、塩竃といふ所に似たる所なかりけり。さればなむ、かの翁、さらにここをめでて、塩竃にいつか来にけむとよめりける。

de01.cali3.jpg

「カリガリ博士(Das Kabinett des Doktor Caligari)」は、1920年公開のサイレント映画で、ドイツ表現主義映画の傑作という評価が高い。表現主義というのは、20世紀初頭に、ドイツを中心に登場した芸術運動で、特に絵画において強い影響力を発揮した。表現主義(Expressionism)という名称からわかる通り、印象主義(Impressionism)への対抗という意味合いを持っている。印象主義が、外界の出来事を心のスクリーンに刻印(impress)することを目指したのに対して、心の内部を外面に表出(express)することをモットーとした。絵画においては、強烈な色彩とデフォルメされた形態が特徴である。

150317.pollers.jpg

創造の柱とは、ヘビ座のわし星雲(M16)に位置する天体。ガスの塊が三つの柱のように聳え立っている。そこでは、新たな星が日々生成されているところから、創造の柱と名づけられた。

s06.1.jpg
(三代目瀬川菊之丞の田辺文三妻おしず)

田辺文三の妻おしずに扮した三代目瀬川菊之丞。三代目菊之丞はもと瀬川富三郎といったが、二代目菊之丞に見込まれて三代目を襲名した。二代目も三代目も女形の名優として名が高かったが、それ以後も、瀬川菊之丞は女形の名跡として、多くの名優を輩出した。

いわゆる従軍慰安婦を巡る過去記事の一部を朝日が取り消したことを受けて、安倍政権とその取り巻きたちは、朝日に償いを求める一方、国際社会に対しては、そもそも従軍慰安婦問題なるものが存在しなかったかのような主張をしている。だがその主張は、なかなか思うような効果を上げていないようだ。先日は、従軍慰安婦についての記述を抹消するよう、アメリカの教科書会社に申し入れて断られたところだが、今度は、イギリスの大手メディアであるフィナンシャルタイムズが、中国人女性が日本軍によって、組織的にレイプされていたという話を流した(China's 'comfort women'By Lucy Hornby  )。

先日、自民党の某女性国会議員が、国会審議での与党へのヨイショ質問の中で、八紘一宇を礼賛する発言をしたと聞いた時には、どうにも笑えないものを感じたものだが、質問者と与党とのやり取りが、今の安倍政権の体質を象徴しているようで、あまりにもしらけて見えるので、あえて物言う気にもならなかった。だが、ことが深刻な割に、たいして問題にもならず、大手メディアも大きく取り上げる様子がない。こういう風景を見せられると、なんだか唇さびしい気分になるものだが、当の発言を厳しく批判した人もいたことが最近わかって、少しは安心した次第だ。

150316.JPG

この写真は、新幹線車内での、我が座席の前に上着をチョイかけしているところを写したもの。前の座席の背中についているフックにひっかけただけの話なのだが、実はこんな方法があることを、筆者はこの時まで知らなかったのだ。通路を隔てて隣り側に座っている人が、こんな風にして上着をひっかけているのを偶然見かけ、早速自分もやってみようと試みたのが、この映像の通りというわけである。

1611.JPG

「十字架のキリスト」もエル・グレコの好んで描いた主題であり、多数のバージンが残されている。日本の国立西洋美術館が所蔵するこの絵は、晩年のものである。このように多数のバージョンがあるということは、それだけ需要が高かったということだろう。多くの需要に応えるために、工房の手も入ったと思われるが、この絵にも明らかにグレコ以外の、弟子たちの手が入っていることが指摘されている。

イスラエルの総選挙でネタニヤフが勝利したことを受けて、オバマ米大統領は早速電話で祝福の言葉を述べる一方、ネタニヤフが選挙期間中強調していた意見に警告をしたという。その意見とは、大きく二つある。ひとつは、自分が首相である間は、パレスティナ国家の存在は認めないというもの、もうひとつは、イスラエル国内におけるアラブ系市民を差別するような発言をしたことだ。

150314.nara701.jpg
(ならまちの家並)

興福寺を辞して後、猿沢の池のほとりを過ぎ、ならまちを散策す。ここは古民家が点在するところとして知らるるなり。文字通り点在するのみにして、今井町の如く面として古民家が集積するにはあらず。それでもなかなか見どころあり。

ise-080.jpg

むかし、おとろへたる家に、藤の花植ゑたる人ありけり。三月のつごもりに、その日、雨そほふるに、人のもとへ折りて奉らすとてよめる。
  ぬれつつぞしひて折りつる年のうちに春はいく日もあらじと思へば

ita.antonioni01.ecli1.jpg

ミケランジェロ・アントニオーニ (Michelangelo Antonioni)が1960年に作った映画「情事」は、同年のフェリーニの映画「甘い生活」とともに、映画の常識を覆す画期的な作品ともてはやされたものだ。明確なストーリーをもたず、あまり関連のない場面が継起するうちに、なんとなく作品の雰囲気が伝わって来る、そんな映画の組み立て方が、従来の映画の作り方とは根本的に異なると受け取られたのである。

安倍政権による、超憲法的というか脱憲法的というか、要するに憲法が想定しないような動きが加速度的に進んでいる。集団的自衛権の法理に基づく自衛隊の武力行使への前ノメリな動きは、その最たるものであろう。安倍政権は、これを合理化するのに、「普通の国」という理屈を持ち出している。普通の国のあり方というのは、憲法以前の、普通の国のあるべき状態をあらわしたものなのだから、あたかもそれは、憲法を超越する論理だと言わんばかりである。

150312.nara601.jpg
(浄瑠璃寺本堂)

三月十二日(木)半陰半晴。朝餉をなし、チェックアウトを済ませし後、近鉄奈良駅まで歩く。しかして駅構内のコインロッカーに荷物を預け、浄瑠璃寺行きのバスに乗る。バスは長閑な田園地帯を走り抜け、三十分ほどして浄瑠璃寺に着きぬ。

s05.1.jpg
(三代目市川八百蔵の田辺文蔵)

「文禄蘇我」における田辺文蔵は、石井家の家臣として石井兄弟の仇討を助ける役柄である。だが、文蔵自身は非力で、頼りない存在として描かれている。その挙句、三幕目の安倍川の仇討場面では、源蔵もろとも返り討ちにあい、太腿を切られてしまう。

150309.titi.jpg

写真(National Geographic )は、ブラジルはマット・グロッソの密林地帯に生息する小型の猿(体重が1.5キロ程度)ティティ・モンキーの仲間ミルトン・ティティ・モンキー。最近、三十種ばかりあるティティ・モンキーの新種として発見された。特徴は、灰色の顔にイェロー・オーカーの頬、それにオレンジ色の長い尻尾だ。

nara501.jpg
(橿原神宮)

室生寺の後は長谷寺に寄るつもりなりしが、脚に不安あり、また本堂へ参るには四百級の石段を上らねばならぬと聞いて、とりやめとなし、橿原神宮に向かふ。

1610.2.JPG

トレドは、スペインにおけるエル・グレコの活動拠点となった都市だ。エル・グレコがここを選んだ最大の理由は、ここにギリシャ人のコロニーがあったことだと言われるが、それと並んで重要なことは、この都市が反宗教改革の拠点であっという点だ。反宗教改革の拠点としてこの都市は、カトリックの宗教的雰囲気を濃厚に醸し出していた。エル・グレコにはその点が非常に魅力的だったのだろう。

内田樹のユダヤ人論「私家版・ユダヤ文化論」を読んだ。日本人の内田が何故ユダヤ人に強い関心を抱くようになったか。内田自身は、自分の師であるエマニュエル・レヴィナスがユダヤ人であり、ユダヤ人であることに強くこだわり続けてきたことに感化を受けたという趣旨のことを言っているが、それのみではないようだ。ユダヤ人が、知の分野から金儲けの分野に至るまで、広い領野で圧倒的な存在感を示し続けてきたことに、ある種の畏敬を感じ、それがユダヤ人への強烈な関心につながっていったということらしい。

150308.crab.jpg

この鮮やかな色彩の蟹は、バンパイアクラブ(吸血鬼蟹)といって、いまペットショップで大人気なのだそうだ。淡水生の蟹で、色彩の鮮やかさもさることながら、小振りな姿も人気のもと。甲羅の大きさは、直径二センチほどしかない。

150306.nara401.jpg
(室生寺本堂)

三月十一日(水)晴。朝餉をすませて後JR奈良駅まで歩み、ローカル線に乗って桜井駅に至り、そこより近鉄線に乗り換へて室生口大野駅にて下車す。山間の、周囲にはほとんど何もなき鄙びた駅なり。客待ちせるバスに乗り、山間の道を走ること二十分ばかり、途中道沿ひに茅葺屋根の家をいくつか見る。土地の農家なるべし。また、バス停の名称に栢森宅前なるものあり。停留所の前に一軒の民家あり、これが栢森宅なるべし。

s04.1.JPG
(三代目佐野川市松の祇園町の白人おなよ)

白人とは、公娼を黒人と言ったのに対して、私娼を指して言った言葉である。おなよの役柄は、祇園の私娼として大岸蔵人の遊び相手を勤めることだ。この絵は、その場面におけるおなよを描いたもの。

西田幾多郎は「善の研究」の序文の中で、「純粋経験を唯一の実在にしてすべてを説明してみたい」と述べている。ではその「純粋経験」なるものとは何か、が問題となるわけだが、それについて西田は、本文の冒頭近くでこう書いている。「純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なるものである」

150305.nara301.jpg
(秋篠寺庭園)

薬師寺より唐招提寺に至る道筋に一軒の蕎麦屋を見かけたれば、そこにて昼餉をなす。昨日のうどんと同じく関西風の出汁なり。この出汁、うどんにはあふといえど、蕎麦にはあはざるが如し。しかもこの店のそばは、春雨のごとく細し。蕎麦はやはり関東風が勝れるやうなり。

ise-079.jpg

むかし、氏のなかに親王生れたまへりけり。御産屋に、人々歌よみけり。御祖父がたなりけるおきなのよめる。
  わが門に千尋ある影うゑつれば夏冬たれか隠れざるべき
これは貞数の親王、時の人、中将の人となむいひける。兄の中納言行平のむすめの腹なり。

ita.germi1.jpg

ピエトロ・ジェルミ(Pietro Germi)が1956年に作った映画「鉄道員(Il ferroviere)」は、イタリア、ネオレアリズモの最後の傑作と言われている。ジェルミ自身、この映画の後には、コメディタッチの映画を作るようになるし、ネオレアリズモの巨匠といわれた作家たちも、1950年台半ば以降、それぞれ独自の作風を展開するようになったからだ。

ここ数日間、公の場から姿を消して、世界中を騒がせてきたプーチンが、一昨日(3月15日)のロシアのテレビ番組に登場して、世界をもっと驚かせるような発言をした。昨年3月のクリミア併合を巡る欧米との対立を前に、核兵器の使用を前提とした準備命令を出したというのだ。ことがことだけに、世界中を震撼させるには十分な発言だった。

150303.nara201.jpg
(法隆寺金堂及び五重塔)

三月十日(火)昨夜就寝の際湿布を施せしにかかはらず、目を覚ますに右膝の痛み未だ去りやらず。歩けるや否や不安にて、如何せんと迷ひしが、天よく晴れ渡り、室内に閉居するは勿体なしと思ひ、強行せんと欲す。ただし予定の一部を変更し、この日は平坦なところを歩むこととす。

s03.1.jpg
(三代目坂田半五郎の藤川水右衛門)

石井兄弟の敵役藤川水右衛門に扮した三代目坂田半五郎は、悪役の大ベテランであった。二代目の坂田半五郎が、亀山の仇討の水右衛門役をあたり芸としていたことが機縁で、その丁度13回忌にあたる寛政六年の五月に、三代目が全く同じ役で追善供養したのがこの舞台であると言われる。

余は奈良を訪問すること度々なれど、あはただしく通過すること多く、古寺を熟覧せしことほとんどなし。わすかに四半世紀前に、単身奈良を訪れ、古寺を経巡りては建築物やら仏像の類を巡覧せしことあり。その折のことどもは、かつて奈良観仏記にしたためたるところなり。

1605.3.JPG

「オリーヴ山のキリスト」と題されたこの絵は、以前紹介した「菜園の苦悩」のテーマを縦長に描いたものである。「菜園の苦悩」では、キリストの傍らの草むらで小さく横たわって描かれている三人の使徒たちを、手前の広々とした空間に大きく描いている。その分、キリストと天使の姿は、相対的に小さくなっている。一方、ユダが兵士たちにキリストを売り渡すところは、前作同様、画面右側の後景として小さく描かれている。

ise-078.jpg

むかし、多賀幾子と申す女御おはしましけり。うせ給ひて七七日のみわざ安祥寺にてしけり。右大将藤原の常行といふ人いまそがりけり。そのみわざにまうで給ひて、かへさに、山科の禅師の親王おはします、その山科の宮に、滝落し、水走らせなどして、おもろしく造られたるにまうでたまうて、年ごろよそには仕うまつれど、近くはいまだ仕うまつらず。今宵はここにさぶらはむ、と申し給ふ。親王喜びたまうて、夜の御座のまうけせさせ給ふ。さるに、かの大将、いでてたばかりたまふやう、宮仕へのはじめに、ただなほやはあるべき。三条の大御幸せし時、紀の国の千里の浜にありける、いとおもしろき石奉れりき。大御幸の後奉りしかば、ある人の御曹司の前の溝にすゑたりしを、島このみたまふ君なり、この石を奉らむ、とのたまひて、御随身、舎人して取りにつかはす。いくばくもなくて持て来ぬ。この石、聞きしよりは見るはまされり。これをただに奉らばすずろなるべしとて、人々に歌よませ給ふ。右の馬の頭なりける人のをなむ、青き苔をきざみて、蒔絵のかたにこの歌をつけて奉りける。
  あかねども岩にぞかふる色見えぬ心を見せむよしのなければ
となむよめりける。

ita.fellini06.roma10.jpg

フェデリコ・フェリーニ(Federico Fellini)の1971年の作品「フェリーニのローマ」は、ローマへのフェリーニのオマージュと言うか、ローマで生きるイタリア人のイタリア的生き方に対するオマージュのような映画だ。それも単なるオマージュではなく、フェリーニの生き方に重ねてのオマージュだ。ということはつまり、フェリーニはローマを賛美しながら自分自身を賛美しているわけだ。

s02.1.jpg
(二代目瀬川富三郎の大岸蔵人妻やどり木)

亀山藩家老大岸妻やどり木に扮する二代目瀬川富三郎。瀬川富三郎は、初代も人気の女形であり、女形の名跡であったようだ。この絵を見ると、表情の作り方や仕草に女らしさが伺えるが、顔をよく見ると、顎のはったところなど、男臭さが覗いて見える。これは、日常生活まで女としての生き方にこだわったという女形の役者にとっては、残酷な表現だと言える。写楽のすごさは、役者の実の姿を見逃さないところにある。

1605.1.JPG

「羊飼いの礼拝」は、エル・グレコが好んで取り上げたテーマである。ヴェネチア時代から晩年に至るまで、繰り返し描いている。中でもこの作品は、晩年の成熟期に描かれたもので、プラド美術館に所蔵されている最晩年のものとともに、エル・グレコの同一テーマによる宗教画の傑作とみなされている。

ジョン・ロールズは、刑罰を正当化する理論的根拠は二つあると言う。一つは応報的見解と呼べるもので、悪行は刑罰に値するという道徳的な根拠によって刑罰が正当化されるというものである。この見解によれば、刑罰の厳しさは、犯された悪行の悪質さの程度に応じて課せられる。もう一つは、功利主義的見解と呼びうるもので、(犯罪がなされた)過去のことはさておいて、刑罰は将来の社会秩序の維持に寄与する限りで正当化されるというものである。この見解によれば、刑罰は将来の犯罪の発生を抑止するために、その政治的・社会的影響の度合いに応じて課せられる。

s01.jpg

写楽は、寛政六年五月の都座の舞台「花菖蒲文禄蘇我」に取材した大判錦絵十一枚を発表した。これが写楽にとっての華々しいデビューとなった。この舞台は、元禄十四年に伊勢亀山で起きた仇討事件に題材をとった歌舞伎狂言である。この事件そのものは元禄蘇我として人口に膾炙していたが、舞台ではそれを「花菖蒲文禄蘇我」として展開したわけである。

先日はアメリカ議会がオバマ大統領の頭越しにネタニアフ・イスラエル首相を招待し、議会演説の中でオバマを痛烈に批判させた。それは、言いたい放題と言った内容のもので、アメリカ大統領に対する外交的な儀礼に反した行為と言われても致し方のないものだった。この背後には、イスラエルの利害を尊重する米共和党の強い意向があったと言われている。

筆者が西田幾多郎を始めて読んだのは三十台半ばのことであった。「善の研究」を手始めにして、岩波文庫に収められた論文を順に読んでいった。筆者は別に哲学者になろうなどと考えていたわけではなく、教養の足しくらいに思っていたので、とりあえず岩波文庫がカバーしている範囲のものを読めば、西田哲学と呼ばれるものの輪郭をつかむことができるだろうと、安易に考えていたわけなのであった。ところが西田の思想というのは、そう簡単に理解できるものではないということを早々に思い知らされた。「善の研究」はなんとか理解できたが、三巻からなる哲学論文集(「西田幾多郎哲学論文集」岩波文庫)の第一巻で躓いてしまったのだ。この中に収められている「場所」という論文は、西田哲学を理解するうえでの鍵となる重要なものといわれているのだが、これがなかなか歯が立たないほど難しい。何が書かれているのか、ほとんど理解できなかったのだ。こんなわけで、筆者の最初の西田への挑戦はあっけなく終わってしまったのであった。

ise-076.jpg

むかし、二条の后の、まだ春宮の御息所と申しける時、氏神にまうで給ひけるに、近衛府にさぶらひける翁、人々の禄たまはるついでに、御車よりたまはりて、よみて奉りける。
  大原や小塩の山も今日こそは神代のこともおもひいづらめ
とて、心にもかなしとや思ひけむ、いかが思ひけむ、知らずかし。

ita.fellini05.sat2.jpg

フェデリコ・フェリーニ(Federico Fellini)の映画「サテリコン(Satyricon)」は、紀元1世紀のローマの作家ペトロニウスの怪奇譚「サテュリコン」を映画化したものである。「サテュリコン」とは、サテュロスのように好色で無頼な者と言う意味だが、その字義どおり、好色で無頼な人間たちが繰り広げる荒唐無稽で残忍かつ奔放な物語の数々である。このような物語が生まれたのにはそれなりの訳がある。ペトロニウスがこの作品の中で描いたのは、あの残虐な皇帝ネロの時代のローマ帝国であり、そこでは快楽と悪徳が支配していた。だから、その世の中を描くことは、勢い、サテュロスが闊歩・跳梁するような倒錯した世界を描くことに通じたわけである。それをフェリーニはわざわざ20世紀に映画化してみせた。というわけは、20世紀もまたネロの時代に劣らず倒錯した世の中だと、フェリーニは訴えたかったのだろうか。

日本国の安部晋三総理大臣にとって、ドイツのアンゲラ・メルケル首相の訪日はいったいなんだったのか。民主主義を標榜する国の首脳同士の関係にしては、両者のやりとりは、ちょっとぎこちないものになった。メルケル首相は、歴史認識や原発再稼動についての安部総理の姿勢を、間接的ながら批判するような言い方を繰り返し、安部首相の面子をつぶすような印象を振りまいた。それに対して安部首相は、大事な相手とあって正面から反発するようなことは慎んだが、内心面白くなかったに違いない。その証拠に、両者が自然な握手をしたという、この手の行事にとって肝心なパフォーマンスが、和やかな雰囲気の中で交わされたという印象がまったく伝わってこない。
安倍晋三総理大臣とその取り巻き連中による「歴史修正主義」の動きが、欧米のメディアに疑念を呼び起こしている。この疑念は、さまざまな形で表明されているが、その一つとして、過去の日本の帝国主義的な拡大政策と、今日の安倍晋三総理の歴史認識との関連について考察したものを紹介したい。Centennial lessons for Abe from the '21 Demands'by Jeff Kingston Japan Times  

日本にも対外スパイ組織を整備したいとする動きが安倍政権にあるとする記事をロイターが載せている (Abe administration considering creating MI6-style spy agency 。この記事は、この組織がイギリスのM16をモデルにしているのでは、と推測しているが、まだそんなに具体化はしていない、と断っている。

東洲斎写楽は、一時は謎の絵師と呼ばれたものだ。まず、正体がはっきりしない。そこで、歌麿の仮の名だとか北斎の分身だとか、色々と言われたものだが、今では、阿波徳島藩お抱えの能楽師斎藤十郎兵衛とする説が定着しつつある。彼の正体がこんなにも漠然としていたのには、いくつかの理由がある。

1603.jpg

エル・グレコは1603年に、イリェリカスにあるカリダード施療院と、祭壇画の制作請負契約を結んだ。イリェリカスは、マドリードとトレドのほぼ中間にある都市で、カリダード施療院は伝説的な雰囲気に包まれたところだった。というのも、ここには、聖ルカが自ら彫刻し、聖ペテロがスペインに運んで来たという聖マリア像を本尊としていたからだ。

ise-070.jpg

むかし、をとこ、狩の使より帰りきけるに、大淀のわたりに宿りて、斎宮の童べにいひかけける。
  見るめかる方やいづこぞ棹さして我に教えよあまの釣舟

ita.fellini04.8.1.jpg

「81/2」という奇妙な題名は、映画の内容をあらわしているわけではない。これはフェデリコ・フェリーニ(Federico Fellini)が作った映画の順番をあらわす数字なのだ。この映画は彼が、8 1/2番目に作った映画と言うわけなのである。1/2という半端な数字が含まれているのは、共同制作のものも含まれているからだ。

emaki4201.honen01.jpg
(法然上人行状絵図、縦35.3cm、14世紀前半、知恩院蔵)

京都知恩院に伝わる「法然上人行状絵図」は、全48巻の膨大なもので、長い年月と大勢の人々の参加によって作られた。「勅修吉永円光大師御伝縁起」によれば、徳治二年(1307)から10年を費やして作ったとされる。また、参加した画家の数は、画風の相違からして10人以上いたと推察される。

自民党の某女性代議士で農林水産政務官の要職にある人が、同僚男性代議士と「不倫」をしていた現場を週刊誌にすっぱ抜かれて、ちょっとした騒ぎになっている。この女性代議士は56歳の熟年女性つまり熟女であって、相手の男性が49歳の年下で、しかも既婚だというのが、面白おかしく取り上げられた理由らしい。この女性代議士は、自分の行為を軽率だったとして謝罪し、そのすぐあとに、身体の不調を理由に入院したそうだ。

1601.jpg

キリストが布教の途中で、商人たちを神殿から追い払った話は福音書に出て来る。たとえばヨハネ伝は、その様子を次のように記している。「さて、ユダヤ人の過越の祭が近づいたので、イエスはエルサレムに上られた。そして牛、羊、鳩を売る者や両替する者などが宮の庭にすわり込んでいるのをごらんになって、縄で鞭を造り、羊も牛もみな宮から追いだし、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、鳩を売る人々には『これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな』と言われた」(ヨハネ伝2:13-16)

ジョン・ロールズの「格差原理」は、分配における正義を巡る議論であるが、同じような議論を展開したものとして、パレートの理論がある。「パレート最適」あるいは「パレート均衡」と呼ばれ、厚生経済学の重要概念の一つとされているものである。

ネタニヤフの米議会演説は、イスラエルの今後にどのような影響をもたらすか。まだ予断はできないが、孤立を深めるものと予想される。ネタニヤフの批判に対して、オバマは「なにも新味はない」といって無視に近い扱いだし、アメリカ国内でイスラエルへの同情が大いに高まったという証拠もないようだ。イスラエルはかえって、中東和平の新たな構想からつまはじきされる恐れさえある。

emaki4101.ippen01.jpg
(一遍聖絵、第二巻、縦37.7cm、歓喜光寺蔵)

京都の歓喜光寺に伝わる「一遍聖絵」は、時宗の開祖一遍の修行と布教を記録した伝記絵巻である。一篇の異母弟聖戒が詞書を作り、高弟の法眼円伊が絵を描き、一篇の死後十年目の正安元年(1299)に完成した。全十二巻からなり、絹布に人物や風景の様子がきめ細かく描きこまれている。当時の風俗を知るうえで貴重な史料であるとともに、日本の風景画のひとつの源流を示している。

R.D.レインは、1960年代から70年代にかけて精神医学界に旋風を巻き起こした人だ。日本でも、「引き裂かれた自己」、「自己と他者」、「狂気と家族」などの著書が翻訳・紹介され、精神病理学の世界に一定の影響を及ぼした。その基本的なスタンスは、分裂病(統合失調症)に典型的な精神病の患者を、社会から隔離するのではなく、むしろ社会の中で、人間関係にかかわらせることを通じて治療すべきだと主張することにある。何故なら、精神病とは人間関係によって引き起こされる病だ、というのである。

近年相次いだインドでのレイプ犯罪については、このブログでも何回か取り上げ、そのたびに強い憂慮の念を表明してきた。今回は、それに付け加えて、もう一つのメッセージを発信したい。というのも、レイプ犯罪の犯人へのインタビューを中心にしたBBCの放送番組を、インド政府が放映禁止措置にしたという事態が起こったからだ。

イスラエルのネタニヤフ首相が、米議会で演説し、オバマ政権が進めている対イラン交渉を厳しく批判した。予想されていたとおりの行動とはいえ、米議会の場で米大統領を公然と批判したことは、今後の米猶関係に深刻な影響をもたらすだろうと予測される。

ise-069.1.jpg

むかし、をとこありけり。そのをとこ、伊勢の国に狩の使にいきけるに、かの伊勢の斎宮なりける人の親、つねの使よりは、この人よくいたはれ、といひやれりければ、親のことなりければ、いとねむごろにいたはりけり。あしたには狩にいだしたててやり、夕さりは帰りつつ、そこに来させけり。かくて、ねむごろにいたつきけり。二日といふ夜、をとこ、われてあはむといふ。女もはた、いとあはじとも思へらず。されど、人目しげければ、えあはず。使ざねとある人なれば、とほくも宿さず。女の閨ちかくありければ、女、人をしづめて、子ひとつばかりに、をとこのもとに来たりけり。をとこはた、寝られざりければ、外の方を見出だして臥せるに、月のおぼろなるに、小さき童をさきに立てて人立てり。をとこいとうれしくて、わが寝る所に率て入りて、子一つより丑三つまであるに、まだ何ごとも語らはぬにかへりにけり。

ita.fellini03.vita2.jpg

フェデリコ・フェリーニ(Federico Fellini)の1960年の映画「甘い生活(La dolce vita)」は、同年に公開されたミケランジェロ・アントニオーニの作品「情事」とともに、映画作りの常識を破るものだとして評判になった。わかりやすい筋立てがないこと、したがってクライマックスのないままに、漫然として終わってしまうことだ。これを評して評論家たちの中には「反ドラマ」と呼ぶ者もいた。

厚労省の、派遣労働を担当する現職の課長が、「派遣は期間が過ぎたら使い捨て、モノ扱いだった」と発言し、物議を醸している。この課長は、ただ本音を述べたつもりのようだが、それにしたって人を馬鹿にした話だ。派遣労働者と雖も人間だ。人間としての尊厳を備えている。それをモノ扱いして恥じない制度を、ほかならぬ行政の直接の担当者が推進する、というのは、どう見ても狂った世界の眺めと言うほかはない。

emaki3501.isiyama01.jpg
(石山寺縁起絵巻、巻二、源順の石山寺参詣)

石山寺縁起絵巻は、近江国石山寺の創建の経緯および霊験の数々を絵巻に仕立てたもので、全七巻からなる。巻一の記述によれば、縁起本文は正中年間(1324~26)に成立したが、絵巻の方は、多くの歳月をかけて作られた。

1600.2.JPG

「キリストの復活」と題するこの大きな絵は、「受胎告知」とともに、ドニャ・マリア・デ・アラゴン学院聖堂祭壇の衝立を飾っていた絵と考えられている。まったく同じ構図の縮小したものがセント・ルイスのワシントン大学に保存されているが、これは受胎告知における大作とその縮小画と同じ関係にあるものと思われる。

反プーチンの活動家として世界的に知られていたボリス・ネムツォフ氏が、モスクワの中心部で何者かによって射殺された。3月1日に予定されていた反プーチンの大規模デモの二日前のことだ。現場は、クレムリンに近い橋の上で、散歩していた氏に向かって背後から来た自動車から弾丸が発射され、氏はその場で即死したという。当然のことながら、この暗殺劇は世界中を賑わすことになった。

モサド(イスラエル諜報特務庁)といえば、イスラエルの情報特務機関として、アメリカのCIAに相当するようなものだ。その機関のかつてのトップで、ネタニヤフの盟友でもあるメア・ダガンが、ネタニヤフを厳しく批判している。理由は、ネタニヤフの政策のために、イスラエルが世界から孤立しつつあり、最近では、最大の庇護者であるアメリカとの関係も損なっているということだ。このままではイスラエルは深刻な危機に直面すると言って、3月に予定されている選挙で、ネタニヤフを権力の座から引きずり下ろすように、ダガンはイスラエル国民に呼びかけている。

ise-068.jpg

むかし、男、和泉の国へいきけり。住吉の郡、住吉の里、住吉の浜をゆくに、いとおもしろければ、おりゐつつゆく。ある人、住吉の浜とよめ、といふ。
  雁鳴きて菊の花さく秋はあれど春のうみべにすみよしのはま
とよめりければ、みな人々よまずなりにけり。

ita.fellini02.cabi1.jpg

フェデリコ・フェリーニ(Federico Fellini)の映画「カビリアの夜(Le notti di Cabiria)」の邦題は「夜毎のカビリア」のほうがよかったように思う。その方が、原題の意味にフィットしているし、カビリアと言う源氏名の街娼が夜毎に体験する出来事を描いたというこの映画の内容にもマッチする。

最近のコメント

  • 操作(フラクタル)自然数 : ≪…円環的時間 直線 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…アプリオリな総合 続きを読む
  • [セフィーロート」マンダラ: ≪…金剛界曼荼羅図… 続きを読む
  • 「セフィーロート」マンダラ: ≪…直線的な時間…≫ 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…近親婚…≫の話は 続きを読む
  • 存在量化創発摂動方程式: ≪…五蘊とは、色・受 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…性のみならず情を 続きを読む
  • レンマ学(メタ数学): ≪…カッバーラー…≫ 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…数字の基本である 続きを読む
  • ぜんまい: 邦題はソポクレスの原 続きを読む

アーカイブ