刑罰における正義:ロールズの正義論

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ジョン・ロールズは、刑罰を正当化する理論的根拠は二つあると言う。一つは応報的見解と呼べるもので、悪行は刑罰に値するという道徳的な根拠によって刑罰が正当化されるというものである。この見解によれば、刑罰の厳しさは、犯された悪行の悪質さの程度に応じて課せられる。もう一つは、功利主義的見解と呼びうるもので、(犯罪がなされた)過去のことはさておいて、刑罰は将来の社会秩序の維持に寄与する限りで正当化されるというものである。この見解によれば、刑罰は将来の犯罪の発生を抑止するために、その政治的・社会的影響の度合いに応じて課せられる。

ロールズは、功利主義的な見解は、刑罰をめぐる制度的な実践の問題に適しているのに対して、応報的な見解は、刑罰をめぐる特定のルールの個々の事例への適用に適しているという。ところが法の運営の実際においては、この二つの見解が明確に区別されず、混同される傾向があり、その結果不都合なことが起こりやすい、とロールズは指摘する。

応報的な見解の方は、過去に犯された犯罪という行為に対して、それに見合った形罰を課すことを問題としている。犯罪とそれに対応する刑罰の対応関係は、刑法という法律の形でルール化されており、そのルールにのっとって、裁判官が刑罰を課すわけである。だから、これは純粋にルールの問題だということができる。そのルールを体系化したのが罪刑法定主義というものである。罪刑法定主義というのは、犯罪の認定とそれに対する刑罰とは、事前に制定されたルールに基づいて、テクニカルになされねばならない、ということを意味しているのである。

ところが、裁判の実際においては、特定の犯罪が罪刑法定主義のルールを逸脱するような刑が課されるケースが往々にして起きる。そうした場合に持ち出される理由は、当該犯罪行為の重大性にかんがみ、同じような犯罪が将来二度と起こらないようにする必要がある、というようなものである。しかし、将来への抑止効果というのは、あくまでも立法的な配慮の問題であって、個々のケースに持ち出すべき議論ではない、とロールズは言う。個々のケースを裁く際の基準は、あくまで現行の法律なのであり、その法律に定められたルールに従ってテクニカルに判断することが、裁判官や検察官など法律家の使命なのである。

こうした問題を考えさせる例として、近年起こった韓国のセウォル号事件が挙げられる。この事件の裁判では、船長などが殺人罪を求刑されたのだが、これはあきらかに罪刑法定主義を逸脱するものだった。船長は、韓国の法律に基づく旅客保護義務を怠り、その結果旅客を死亡させたことは間違いないが、しかし、彼らに殺意があったとはいえず、従って殺人罪を適用するのは明らかに行き過ぎだった。その行き過ぎを法律家にさせたのは、この事件をめぐる世論の厳しさだったわけだが、いくら世論が厳しいからといって、現行の法律の枠を超えて、厳罰を課すのは罪刑法定主義の理念から逸脱する。そうした世論に配慮すべきなのは、裁判官ではなく、立法者なのであって、立法者が将来に向けて同様の事態が起こらないように、法律を変えるべきなのである。

このケースは、刑罰をめぐる功利主義的な立場と応報主義的な立場とが混同された典型だと言えよう。ロールズ自身は、功利主義的な立場が応報主義的な立場と混同されることによって、無実の人が有罪になる可能性が高くなると指摘している。ロールズによれば、ある重大な犯罪が起こされた場合、世論の厳しい声に押される形で、十分な証拠の裏付けがないままに断罪されるケースが、ままにして起きる。そうなるわけは、とりあえず犯罪を罰しなければ、人々の処罰感情が満足されないからだ。功利主義の立場によれば、処罰することによって社会にもたらされる効用が大きければ、処罰される個人の不都合はあまり重視しないでもよいということになるから、往々にして冤罪が発生するのだということになる。

それ故、立法者も法律家も、自分の立場をわきまえて行動する必要がある。犯罪と刑罰との対応を決めるのはあくまでも立法者なのであり、法律家は立法者の定めた法律を、ルールに従って適用すればよい。法律に隙間があるのなら、それは立法的に解決すべきであって、その隙間を法律家が埋めようとするのは邪道である、というのがロールズの基本的な立場であり、その点は筆者も同意できる。

罪刑法定主義がルールであるという点は、野球のルールと異なるところはない、ともロールズは言う。もし野球のプレーヤーが、スリーストライクのルールが非合理だと言ってそれを守らないとしたら、彼は気が狂っているに違いないと受け取られるだろう。ルールというものは、一旦定められたら、それが公式に改正されない限り、誰もが従わねばならない。それと同じようなことが、刑罰をめぐる議論にも適用される、とロールズはいうわけなのである。

刑罰というものは、正義が最も端的な形で問題となる分野だ。ところが、その刑罰をめぐる正義の議論において、他の問題では功利主義に厳しい姿勢を示しているロールズが、一定の意義を認めているのは、興味深いことといえよう。








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