三四郎:漱石を読む

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朝日が「こころ」に続いて再連載していた「三四郎」を、筆者は「こころ」の時と同様毎日欠かさずに読み続けた。連載で読むというのは、単行本で読むのとはまた違った趣がある。普通は連載で読んだ後に、その余韻を再び味わいたくて、単行本になったものを読み返すという段取りをとるもので、一度単行本で読んだことのあるものを、再連載されたもので読み返すのはおかしなことだと思われないでもないが、やはりそこにはそれなりの趣がある。実際筆者は、毎日、初めて読む文章のように、再連載された文章を味読したものである。

筆者が「三四郎」を読んだのは高校生のときで、もう半世紀も前のことだ。それ以来一度も読んでいない。そこで半世紀ぶりに読んでの印象だが、筆者はこれが失恋小説だということに初めて気づいた。これは田舎から出て来たうぶな青年が、都会の洗練された令嬢に恋心を抱いたものの、田舎者のこととてスマートに振る舞うこともできず、ぐずぐずしている間に、相手に捨てられてしまうという物語だった。そのことを今回再読して、改めて思い知ったのであった。

このことに気づく前には、筆者はこの小説をどのように受け取っていたのか。なにしろ読んだのが半世紀も前のことで、しかもまだ成人になる前のことであったから、読書の感想は大方忘れてしまっていたが、少なくともこれを、失恋小説だとは受け取っていなかった。田舎から出て来た青年が、様々な人間関係に揉まれながら、次第に成長していく過程を描いた、一種の教養小説のように受け取っていたのである。

しかし、これを失恋小説と受け取り直したことで、この小説が何故、「それから」及び「門」と並んで三部作と言われているのか、その事情が判ったような気がした。この三部作は、男女の恋愛の不幸な流れを、継時的に取り上げて問題にしているのだ。つまり、「三四郎」は男が女を失う話、「それから」は、一度失った女を、女に姦通の罪を犯させても、取り返す話、「門」は、友人から取りかえした女と、生きるのをやり直す話、と言う具合に、この三作は縦につながっているわけである。

そこで、この「三四郎」を、男が女を失う話だと受け取れば、三四郎は何故女を失う羽目になったのか、三四郎に愛された女は、果して三四郎を愛していたのか、などということが大きなテーマとなって前面に出てくる。まず、女を失うためには、少なくとも一度はその女を所有していなければならない。自分の所有でもない者を失ういわれはないからだ。で、三四郎は美弥子を所有したことがあったのだろうか、ということが問題になる。小説を読んだ限りでは、それは明確には伝わってこない。男が女を所有するというのは、文字通りフィジカルに所有する場合と、メンタル(=精神的)に所有する場合とがある。精神的に所有するというのは、女の心を自分の虜にすることだ。そこで、美弥子は果して三四郎の虜になっていたのかが改めて問題になるが、テクストからはどうもそのようには読み取れない。美弥子は三四郎を相手に意味深長な言動を繰り返すが、どうもそれは三四郎の虜になった女の言動とは受け取れぬ。

虜になっているのはむしろ三四郎の方なのだ。なにしろ三四郎は、例の大学の池のほとりで美弥子の姿をちらりと見て以来、彼女の虜になってしまったと言ってもよい。この場面以降の三四郎は、のべつまくなしに美弥子のことばかり考えている。それは、女の虜になった気の毒な男の姿そのものと言ってよい。こういうわけで、三四郎が美弥子を失った、というのは適当な表現ではない。美弥子はもともと三四郎の所有ではなかったわけだし、無論三四郎を愛していたわけでもない。つまり、美弥子に対する三四郎の思いは、一方的な片思いであったわけだ。だから、美弥子が三四郎の前からとりあえずいなくなるのは、失われたというよりも、消えていなくなったというのが相応しい言い方だろう。

それにもかかわらず、である。三四郎には美弥子を失ったという感情がまといついて離れない。この感情が有効であるがために、失った女を取り戻す話である「そらから」や、取り戻した女と新たな生活を始める「門」へとつながっていくわけである。男女の間柄と言うのは、理屈で割り切れるものではない。客観的に見れば男が女を所有しているわけでもないのに、男の方では女を所有している気持ちになる、ということは十分にあり得ることだ。そういう事情のもとでなら、男が女を失ったという気持になるのには、それなりの理由がある。

それにしても、美弥子の結婚話は変わっている。美弥子の夫になる人は、兄の友人と言うことになっているが、どういう人物なのか、小説の中ではほとんど言及がない。この男は、始め野々宮さんの妹のよし子と結婚するつもりでいたのを、美弥子に乗り換えたということになっている。美弥子の方では、親友であるよし子の許嫁を横取りする形になるわけだが、それについては余り罪の意識を持っていない。というよりか、そもそもその男とどういうわけで結婚する気になったのか、テスクトからは全く伝わってこない。だから、三四郎にとってみれば、何故美弥子が自分から遠ざかってしまったのか、訳がわからないということになる。この小説が、半世紀前の筆者のように、まだ若くて経験の乏しい者には、一種の恋愛小説だと見えないのも、三四郎と美弥子の間柄が、すっきりと伝わってこないからだろう。

ところで、小説の始めのほうで、三四郎が汽車の中で出会った女と一夜を共に過ごす場面があるが、漱石はあれをどういうつもりで入れたのだろうか。この女は、夫を戦場に送り出している間、子どもを育てながら家庭を守っているということになっている。その女が所要で実家へ帰る道筋、車内で偶然出会った三四郎と名古屋で途中下車し、一緒に旅館に泊まるのである。旅館側では二人を夫婦と勘違いして、それなりの待遇をし、布団も一組しか敷かない。迷惑に思った三四郎は、女を一人で布団に入らせ、自分は敷布かなんかを被って畳の上で寝てしまう。それを翌日女から冷やかされ、あなたは度胸のない人だ、などと揶揄される。全くいいところなしであるが、それにしても、こんな女が、漱石の時代には珍しくなかったということなのか。

この二人が知り合ったきっかけと言うのがまた面白い。三四郎が食い終わった弁当箱を列車の窓から投げ捨てたところ、その弁当ガラが風に乗って女の顔を直撃したというのだ。なんとも色気のない話である。

なお、朝日はこの再連載シリーズの人気の高さに気をよくしたらしく、次は「それから」を連載するそうである。こちらは先日単行本で読んだばかりだが、再連載のほうも是非読んでみようと思う。








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