漱石の女性像:「明暗」のお延

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漱石の小説に出てくる女性たちは、どちらかというと個性のない陽炎のような存在と言うイメージが強い。「虞美人草」の藤尾や「三四郎」の美弥子のような、多少の個性を感じさせる女性もいないではないが、彼女らの個性も、彼女ら自らの強い意思に従って、彼女らの内部から発せられるというよりは、男の視線を通じて浮かび上がってきたような在り方としてである。どちらにしても漱石の描いた女性たちは、男にとっての従属的な存在だというイメージを拭えない。そんな中で、「明暗」のお延だけは独特の光を放っている。彼女は、男との関係で初めて女性であるのではなく、それ自身で自立した女性として描かれている。この女性は、色々な面で複雑な性格を感じさせるのだが、その複雑性は、彼女が自立している事の反映というような具合に描かれているのである。

お延の自立性は、彼女の容貌にも反映している。漱石の女性たちは、明示的に言及されていない場合でも、二重瞼の涼しげな眼を持ち、我を抑えた控えめな表情をしている。一方、お延のほうは、一重まぶたの細い目を持ち、その眼で時折夫をじろりと見るような、意思の強さを感じさせる。彼女が津田と結婚したのも、彼女自身が津田を選んだ結果だった。「津田を見出した彼女はすぐ彼を愛した。彼を愛した彼女はすぐ彼のもとに嫁ぎたい希望を保護者に打ち明けた。そうしてその許諾と共にすぐ彼に嫁いだ。冒頭から結末に至るまで、彼女は何時までも彼女の主人公であった。又責任者であった。自分の料簡を余所にして、他人の考えなどを頼りたがった覚えはいまだ嘗てなかった」のである。

自分の意思で津田と結婚したお延は、世間一般の細君の地位に安住しては居られなかった。彼女は、自分が夫を愛しているのと同じような強さを以て、夫が自分を愛することを求めた。だが、夫は時折自分をぞんざいに扱うことがあるし、また、自分が彼を愛しているほど、自分のことを愛していないようにも感じられる。そこのところが彼女には耐えられない。夫は全身全霊を以て自分を愛するべきなのだ、と信じて疑わない。だから、夫の愛を独占できない自分が、「世間には津田よりも何層倍か気むづかしい男を、すぐ手のうちに丸め込む若い女さえあるのに、二十三にもなって、自分の思うように良人を綾なしていけないのは、畢竟知恵がないからだ」と世間から思われるのが癪に障るのである。

女のこういう心構えは、当時の日本にあっては、噴飯ものというべきものであった。女というものは、嫁いだからには、夫の愛を受動的に受け入れて、自分の境遇に満足していなければならないものと考えられた。男というものは、多少の浮気をするくらいは当たり前で、女房が独占して置けるはずのものではない。女房というものは、夫の愛の一部分を振り向けてもらえば、それに満足するべきであって、夫の愛を独占したいなどとは、たわごとと言うべきである、という風に考えられていた。だからこそ、津田の妹のお秀の目にも、お延は、「津田の愛に満足することを知らない横着者か、さもなければ、自分が十分津田を手の内へ丸め込んで置きながら、わざと其処に気の付かないような振りをする、空々しい女」という風に映るのである。

こんな訳だから、お延と津田との間にはいつも緊張感が漂っている。お延のほうでは、常に夫を自分の意のままに操りたいという意思が働く。その意思は時に征服欲を思わせるような大袈裟な様相を呈することもある。何がお延をそれほどまでにさせたのか。こうしたお延の性向は、世間では「女上位」と称されるもので、とかく女が強い家に生まれた女に見られやすいものだ。女が強い家とは、女が男を婿に取った家で、そういう家では、男はとかく女の尻に敷かれやすく、女は亦亭主に対して居丈高になりやすい。そういう家に育って、いつも母親が威張っている姿を見ながら育った娘は、自然亭主を尻に引くのが当たり前と思うようになるものだ。

ところが、お延はそういう家に育ったわけでもないらしい。彼女の生家のことは小説ではほとんど触れられておらず、その代わりに彼女を引き取って面倒を見た保護者の家のことが書かれている。それによれば、保護者である岡本の家は、夫のほうがリード役で、決して女上位の家柄ではない。その岡本はなかなか如才ない男で、その如才のなさをお延も受け継いだということになっているが、それがどうお延の性格形成に関わりがあったか、については言及がない。

夫に対しては要求が高いお延だが、自分自身に対しては大変甘いところがある。夫が手術のために入院しているというのに、見舞いをさぼって保護者の吉本家族と、芝居見物に現をぬかしている有様だ。そして吉本から自分あてに貰った小遣を、夫のために貰ったと嘘をついて恩に着せようとする。なかなかしたたかな女なのだ。

お延のしたたかさは、彼女自身の言葉によって語られることで、余計に迫力を以て読者に迫る。「明暗」という小説の一つの大きな特徴は、複数の視線から描かれているということにあるが、その視線の一つとしてお延のそれがある。お延は、他の小説に出てくる女性たちのように、男の視線の先にある受動的な存在ではなく、視線の発し手として、自分の目から世の中を見るような形になっているのである。

津田のほうにしても、お延の視線の対象として、受け身であるばかりではない。津田もまた、自分自身の視線を以てお延を観察している。彼の視線の先にあるお延は、結婚したての可愛い女であるには違いないが、したがって自分の保護すべき弱い存在のはずなのだが、時には、自分の領域の中にずけずけと入り込んできて、自分をまごつかせることもある、なかなか手ごわい存在としても映っている。だからこそ津田は、お延に対して多くの隠し事をするようにもなる。その最たるものは、捨てられた女と縒りを戻そうとすることなのである。

この、津田を捨てた清子という女が、この未完の小説の最終部分で突然出てくるのであるが、その女の影を、お延も何時かしら意識するようになる。はじめの方では比較的気持に余裕があるように書かれていたお延が、途中からいやに勘繰りたがるようになるのは、夫に愛人がいたらしいことを感づくようになってからのことだ。お延はそのことを、小林から吹き込まれたらしいのだが、小説はその辺をわざとぼやかしている。ただ、お延が急に嫉妬深くなったというように書いてあるだけである。

こんな具合で、この小説の醍醐味の一つは、津田とお延という一対の新婚夫婦の、これから先の人生の主導権をめぐる駆け引きにあるということができよう。







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