「明暗」の書かれなかった部分

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漱石の最後の小説「明暗」は、病み上がりの津田が伊豆の温泉に湯治名目で出かけて行って、そこでかつての恋人清子と再会する場面で終っている。この小説は、先稿でも言及したように、主人公の二人の女性との関係を軸に展開していくもので、清子はその二人の女性の一人として、重要な位置づけのキャラクターだ。その重要な人物との関係がどのように展開していくか、読者としては大いに関心をそそられるところだが、その関心が盛り上がったところで、小説はいきなり中断してしまうのだ。いうまでもなく、執筆者の漱石自身が、大病に襲われて死んでしまったからだ。

漱石が、この小説に対して特別な思い入れを抱いていたことは、多くの研究者が指摘しているところだ。漱石は、自分の健康状態からいって、或はこれが最後の作品になるかも知れないと予感していたともいう。それ故、死の直前に病気が悪化した際に、かかりつけの医師に向って、「真鍋君どうかしてくれ、死ぬと困るから」と言ったのであろう。死んでしまえば、別に困ることもないわけだが、それでは小説に結末を与えることが出来なくなる。それでは、自分はともかく、読者が残念だろう、と漱石は慮ったのであろう。

こんなにも漱石の思い入れの詰まったこの小説が、もし漱石があと少し生きられたなら、どんな結末を与えられたか。これまでに、多くの漱石ファンたちが、その謎にこだわってきた。そこで様々な推測がなされてきたわけだが、漱石自身が大した手がかりを残さなかったものだから、どれも説得力のある説明にはなりえていない。そんな中で筆者が感心したのは、最近読んだ大岡昇平の見解だ。大岡は、津田と清子との新たな関係を、姦通と言う形での、恋愛のやり直しだ(あるいはそうなるべきはずのものだった)と見ているのだ(大岡昇平「『明暗』の結末について」)。

大岡は、そう考える根拠を二つ挙げている。一つは吉川夫人の津田へのけしかけだ。吉川夫人は、津田と清子との関係をずっと知り尽している一方、津田とお延との結びつきにも一役買っている。そんな夫人が津田に対して、清子との姦通を勧めるというところに、大岡は着目する。大岡は、吉川夫人については、不道徳で浅墓な人間として、あまり重きを置いていないのだが、彼女の津田に対する支配力については評価していて、その支配力を行使して、津田を清子との姦通に駆り立てたというのである。彼女をそうさせた理由は、お延への反感と言うことらしい。

もう一つは、ほかならぬ清子が、津田に向って姦通をけしかけているとする見方だ。伊豆の旅館で思いがけず津田と再会した清子は、最初は驚いて取り乱したりするが、やがて意を決して津田と会うこととする。ひとつには、津田が吉川夫人の差し金でわざわざ自分を目当てにやって来たということを了解したからだし、また、病み上がりの無聊を、かつての恋人に慰めてもらいたいという思惑があったからかもしれない。そんな彼女が、津田に再開して早々、思わせぶりなことを言う。この旅館にはいつごろまで滞在するつもりかとの津田の問いかけに、夫から電報が来ればすぐ帰らなければならないと答えるのだが、彼女は一方では、旅館の女中に、夫が近いうちに見舞に来ると告げているので、この言葉は不自然だ、と大岡は言う。つまり、早く私にアタックしなさいと、津田に向ってけしかけているのではないかと言うのである。

清子が津田を捨てて他の男に嫁入りした理由は、小説の中では触れられていない。しかし、その結婚はあまり幸福なものとは描かれていない。清子がこの温泉に来たのは流産の後の療養のためということになっているが、夫との退屈な生活に耐えられないで、避難して来たのだというようにも伝わって来る。つまり、清子の方では、かつての恋人とヤケボックイになる条件が熟しているというのだ。

漱石は、男女の恋愛をもっぱら姦通と言う形で描いてきた非常に珍しい作家だ。その姦通による恋愛と言うテーマが、最後の小説でもある「明暗」においても繰り返されている、というのが大岡の見立てなのだが、その見立ては筆者も賛成できる。ただ、「明暗」はただの姦通小説ではない。姦通小説といえば、一対の男女の間の関係を描くということになるが、「明暗」と言う小説は、もっと複雑な世界を描いている。少なくとも、津田と清子との関係に並行して、あるいはそれ以上に重要なテーマとしての位置づけにおいて、津田とお延との関係も描かれている。その点では、冒頭で指摘したとおり、男女の不思議な三角関係を描いた小説だともいえる。

さて、津田と清子との新たな関係が姦通であるということになれば、それはどのような展開になっただろうか。その辺についても、大岡は想像力を逞しくしている。姦通であるから無論、あまり格好のいい結末にはならない。お延は当然傷つく、そこで漱石はお延を自殺させようと考えていたかもしれない。その自殺の方法にもいろいろある。例えば、小説の中で暗示されているように、津田と清子が不動の滝の見物に出かけたところに、突然お延が現れる。彼女は彼女なりに、様々な糸を手繰りながら夫の不倫現場にたどり着くと言うわけだ。

いや、そうではなく、自殺するのは清子だとする方向も成り立つ。大岡は、この方が自然だと言っている。というのも、そんなに簡単にお延を自殺させてしまっては、それまでに延々と描かれてきた彼女の小説の中での存在感が、あまり根拠のないものとなってしまうだろうというのだ。というより、漱石は、このお延という女性にかなり感情移入しているところがあり、どちらかといえば彼女の味方である、その味方である漱石が、愛する女性を簡単に死なすわけがない、と大岡は作家魂を発揮させながら、想像を逞しくするというわけなのだ。

ところで、この最後の場面の舞台となる伊豆の温泉のことだが、筆者はそこがどこかわからなかった。小説では、軽便で行くということになっているので、中伊豆の修善寺周辺かとも思ったのだが、それにしては辻褄の合わないところが多い。そう思っていたところへ、これもやはり大岡昇平が教えてくれた。この温泉は湯河原温泉だというのだ。湯河原はいまでこそ東海道線が通っている便利な場所にあるが、漱石がこの小説を書いた頃には、まだ東海道線は通っておらず、そこへ行くには、国府津で電車に乗り換えて小田原まで行き、小田原から軽便に乗って行かなければならなかったので、一日がかりの旅だったというのだ。その情報をもとにして読み直せば、なるほどと納得できる。なお、漱石は湯河原温泉の天乃屋という旅館をモデルにしているそうだが、その旅館は廃業して、今は存在しないという。







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