絶対無の自己限定:西田幾多郎を読む

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西田幾多郎の思想は、純粋経験から出発して、その問題意識を深める方向で、自覚を経て場所へと変転していった。場所とは、すべての経験がそこにおいて成立する舞台のようなものであり、またあらゆる実在の基盤となるものであった。それは究極的な一般者というふうに言われることもあるが、一般者とは西田に於いては、自己を限定して個物を生じるものであり、したがって個物からなるこの世界の究極根拠となるものでもあった。その場所あるいは一般者を西田は無と言い、場所の中でももっとも高次の次元の場所を絶対無と言った。

というのも西田の場所は、均質的なものではなく、いくつかの層からなる重層的なものであった。場所は一般者と言い換えられるが、その一般者の中に西田は、判断的一般者、自覚的一般者、叡智的一般者を区別し、それぞれに対応して、自然界、意識界、叡智的世界が生成するとした。自然界は判断的一般者が自己限定することで、意識界は自覚的一般者が自己限定することで、叡智的世界は叡智的一般者が自己限定することで、それぞれ生成するわけである。

西田にあっては、それぞれのレベルの一般者は無である。しかして最も高次元の一般者たる叡智的一般者は絶対無である。しかして個物は無であるところの一般者が自己限定することで生成するとされる。叡智的世界を構成する個々の要素(美的世界や宗教的世界)は、絶対無が自己限定することで生成するわけである。

ここで、「無」という言葉で西田が何を意味しているかが問題になる。哲学的な通念においては、有とは存在していることであり、無とはその反対の非存在をいう。それ故、無は有の対立概念であり、両者は互いに排斥しあう。論理的には、両者の間には矛盾率や排中率が成立する。あるものは、存在しつつかつ存在しないことはない(矛盾率)、存在するか存在しないかのどちらかである(排中率)、つまり有でありつつ無であることはない。ところが西田の議論は、無が自己限定して有が生成するという構図になっている。無から有が生じるのであるから、存在しないものから存在するものが生成するということになる。矛盾率も排中率もないわけである。

それ故、西田は「無」と言い「有」と言いながら、それらを伝統的な哲学とは異なった意味合いで用いているのだろうと推測される。実際、西田のこれらの言葉の使い方は、西田独自と言うほかはない。

西田には、ある言葉を厳密な定義なしにぶっきらぼうに持ち出し、それを自己流の意味合いに使って平然としたところがある。「無」という言葉もその一例で、西田はこの言葉を通常の意味での「何もない」とか「存在しない」という意味合いで使っているわけではない。

西田学者の小坂国継が指摘しているように、西田が「有・無」と言うときには、意識の対象という意味合いにおいて使っている場合がある(小坂「西田幾多郎の思想」)。この場合には、意識の対象となりうるもの、つまり形のあるものを西田は有という。これに対して、絶対に意識の対象とならないものを西田は無という。ところが意識の働きそのものは、フッサールの言葉を使えば作用としてのノエシスそのものであり、対象としてのノエマとなることはない。ノエマとなったときの意識は、作用としての意識ではなく、対象として見られたものとしての意識である。作用としての意識そのものは意識の対象となることはないから、それは「無」というべきである、というのが西田の議論の特徴なのである。

このような、対象化されないもの、形象化されないものは、「無」という言葉であらわされるが、それは存在しないもの、非存在というわけではない。むしろこのようなものこそ真の意味で存在している、と西田は考える。なぜなら、それは自己を限定することで有としての個物を産み出すわけだから、有の根拠をなすものとして真の実在といえるわけである。

ところで、無の中でも究極の無、それを西田は絶対無というわけだが、その絶対無とはいかなるものか。西田は無と言う言葉を意識の作用面をイメージして使っていた。その意味では、無と言う言葉は自覚的一般者についてもっとも適切に適用されると考えられる。自覚的一般者とは、人間の意識の作用面について言っている言葉だからである。ところが西田は、自覚的一般者を包み込むような形でのもっと包括的な一般者として叡智的一般者というものを持ち出してくる。絶対無はこの叡智的一般者の属性として考えられているのだ。

叡智的一般者は、一方では判断的一般者と自覚的一般者を包摂する高次の一般者としての位置づけを持たされているとともに、それ自身の世界をも持つとされる。判断的一般者が自己限定することで自然界が生成し、自覚的一般者が自己限定することで意識界が生成するように、叡智的一般者が自己限定することで、叡智的一般者に対応するレベルでの叡智的世界が生成してくる。叡智的世界と言う言葉で西田がイメージしているものは、芸術や宗教のほか、人類全体の歴史的形成体といえるようなもの、つまり人類の類的なあり方全体を包括するような壮大なイメージを持たされているようである。

そうした意味合いでは、西田の絶対無はヘーゲルの絶対精神のイメージに近い。ヘーゲルの場合には、究極の実在としての絶対精神が自己疎外することでさまざまな自然的、人間的、歴史的世界が生成してくる。西田の場合には、絶対無が自己限定することで、さまざまが個別的な世界が生成してくる、という機制になっているように見える。







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