ええじゃないか:今村昌平

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幕末の激動期には、社会の混乱を象徴するような様々な事件が起こった。一揆や打ちこわしの外、「おかげ参り」とか「ええじゃないか」といった民衆運動などがその代表的なものである。とりわけ「ええじゃないか」は、この時代に特有な現象であって、急激に燃え広がったと思うや、わずかな期間で鎮静化した。討幕運動のさなかに起きた事件と言うので、薩摩を中心とした討幕派の陰謀だとする説もある。

今村昌平の映画「ええじゃないか」は、まさにこの民衆運動を取り上げ、幕末の激動期を生きた様々な人々の人生模様を描いたものだ。舞台は江戸本所界隈で、東両国(いまの墨田区両国)の見世物小屋を中心に展開するのだが、この地区で「ええじゃないか」が燃え上がったという記録は見当たらず、また、登場人物たちのプロフィールにも首をかしげるところが多々あるので、史実の真否や時代考証の是非を論じるとキリがない。観客はこの映画を、純粋に空想的な設定のもの、つまり荒唐無稽の部類に入るものと割り切って見た方がよい。

荒唐無稽ではあるが、一応テーマのようなものはある。それは、幕末・維新という歴史の一時期の流れを、権力者の視点からではなく、民衆の視点から見るということだ。普通の歴史記述は、この激動の時代を勝ち残った勢力、つまり薩長藩閥の視点から書かれている。その視点から見れば、幕末・維新の激動は日本が生まれ変わるための陣痛だったのであり、その激動を勝ち抜いた薩長藩閥にこそ正義は宿っていたということになる。だが、この映画に出てくる人々にとっては、徳川幕府も薩長藩閥も、それぞれ自分たちの利害に駆られて動いているだけであり、どちらが正義で、どちらが悪ということはない。どちらも五十歩百歩なのだ。ただひとつ明らかなのは、彼らの抗争で迷惑を蒙るのは民衆なのである、という強烈な事実である。

こんなわけで、この映画は、「豚と軍艦」同様さめた歴史眼に貫かれている。また、「豚と軍艦」同様、今村はこの映画をこじんまりとまとめようなどとはしていない。人間の奔放なエネルギーを、ありのままに発散させるという、ある意味禁欲的な態度に徹している。そのために映画の様式的な均整が破たんしてもよい、均整よりも情念をありのままに表現する方が大事なのだ、そう考えているのであろう。

映画は幕末の激動の流れを縦軸に、それを生きる人々の動きを横軸にして、多面的な展開を見せる。縦軸のうちでポイントになるのは、徳川幕府と薩長の対立であり、徳川幕府内の派閥争いであり、民衆による一揆や打ちこわしである。そしてそれらの総仕上げとして「ええじゃないか」の爆発的な騒ぎが来る。一方、登場人物たちは、それぞれにこの激動の荒波に乗って漂っていく。この映画を彩る登場人物たちには、歴史を動かすような甲斐性はなく、ただただそれに押し流されていくといった具合なのだ。

登場人物のうち、一応主役級と言えるのは、泉谷しげる演じるアメリカ帰りの百姓源治と、桃井かおり演じるその妻イネである。源治はジョン万次郎のパロディなのだろう。難破漂流してアメリカ暮らしをした後、日本に戻ってきたということになっている。彼が戻ってきたのは女房に会いたいからで、できたらその女房を連れてもう一度アメリカに渡りたいと考えている。しかし、女房のイネのほうには、日本から出て行くなどとは、とうてい考えられない。彼女は、東両国の見世物小屋で、ストリップをしている方がよほど楽しいのだ。

イネの雇い主金蔵を演じているのが露木茂で、彼も泉谷・桃井に劣らず重要な役割を演じる。見世物小屋を主催するのは乞食の親分と言うことになっていて、そのとおり彼は乞食の親分なのだが、どうしてなかなかの風格を感じさせる。その風格は、人情に熱いということから来るのだろう。この男には、他人を儲けの材料としてばかりではなく、人間として遇する度量がある。一方、知力にも優れていると見えて、徳川幕府と薩長を二股に賭け、双方から儲けるという抜け目なさも持っている。江戸市中での打ちこわしや「ええじゃないか」を仕掛けたのは、薩摩と組んだこの男の仕業だということにしている。

草刈正雄演じる琉球人の糸満は、神奈川の牢屋の中で源治と知り合い、ともに脱獄する。彼は、自分の家族を含む大勢の琉球人を殺した薩摩人を心の底から憎んでおり、なんとか復讐したいと考えている。彼が当面の仇として狙っているのは伊集院と言う薩摩武士である。執念が実ってこの男を船の中で殺すと、男から抜いた血で布を染め、それで船の帆を作る。その船で琉球まで帰ろうというのだ。

このほか、映画には大勢の人物が出てきて、それぞれに自分の生きざまを繰り広げる。映画の語り口というものがあるとすれば、この映画の語り口は途方もなく多面的なのである。その多面性は、ややもするとまとまりのなさにつながったりするが、それによって醸し出される豊饒さが、それを上回るプラスの効果を発揮しているともいえる。

ラストシーンは、民衆による「ええじゃないか」の狂い踊りだ。「ええじゃないか」は、薩摩と組んだ金蔵が仕掛けたということになっているが、最後には、そんな仕掛けなど乗り越えて、民衆自身が主体的に狂いだす。民衆による、そういう主体的な動きは権力者にとって気味の悪いものだ。だから、その狂い踊りは幕府によって弾圧される。源治や金蔵もその弾圧の弾丸にあたって死んでしまうのであるが、その銃を幕府のために買い入れるにあたって、金蔵と源治が並々ならぬ貢献をしているわけなので、これは何とも皮肉な結末なのである。

民衆は、東両国で「ええじゃないか」の踊りを始めた後、両国橋と船を使って対岸の西両国(いまの東日本橋地区)に渡ったところで幕府軍に射殺されるということになっているが、これが史実かどうかは、たいしたことではない、と今村は言っているようだ。

なお、この「ええじゃないか」の光景と言い、東両国界隈の猥雑な光景と言い、そこには民衆のすさまじいエネルギーが感じられる。こうした場面を見ると、マルセル・カルネの有名な映画「天井桟敷の人々」が想起される。







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