2015年6月アーカイブ

ギリシャのデフォールトで本当に困るのは誰か

ギリシャが国債の返還期限を前に資金の手当ての見込みが立たず、このままではデフォールトに陥る可能性が非常に高いと言って大騒ぎになっている。ギリシャの債権者であるIMFやECBなどは、デフォールトによって損失を蒙るのは債権者だけではなく、ギリシャ国民も困るのだから、ギリシャ国民はこれをもっと真剣に受け止めて、ユーロの差し出している再建プランを飲むべきだなどと主張しているが、果たしてそうだろうか。

台南観光:アヒルの台湾旅行その三

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(延平軍王祠)

昼食後、赤崁楼という史跡に立ち寄った。17世紀中ごろ台湾南部を占領したオランダ軍によって建てられたもので、レンガの色にちなんでこの名がつけられたという。そのしばらく後、鄭成功がオランダ軍を駆逐し、この町を承天府と名づけて台湾政治の中心とした。敷地の一角には鄭成功がオランダ軍と対峙しているところをあらわした銅像が立っている。そういえば、鄭成功の銅像は高雄のホテルのロビーにも立っていた。鄭成功は、台湾の中でも特に南部で人気が高いということなのだろう。

蟲愛づる姫君(二):堤中納言物語

これを若き人々聞きて、「いみじくさかし給へど、心地こそ惑へ。この御遊び物よ。いかなる人、蝶めづる姫君につかまつらむ」とて、兵衞といふ人、
  いかでわれとかむかたなくいでてかくかはむしながら見るわざはせし 
といへば、小大輔といふ人笑ひて、  
  うらやまし花や蝶やといふめれど鳥毛蟲くさき世をも見るかな 
などいひて笑へば、「からしや。眉はしも、鳥毛蟲だちためり。さて、はくきこそ、皮のむけたるにやあらむ」とて、左近といふ人、 
  冬くれば衣たのもし寒くともかはむしおほく見ゆるあたりは 
衣など著ずともあらむかし、など言ひあへるを、おとなおとなしき女聞きて、「若人達は、何事言ひおはさうずるぞ。蝶愛で給ふなる人、もはら、めでたうも覺えず、けしからずこそ覺ゆれ。さて又、鳥毛蟲竝べ、蝶といふ人ありなむやは。唯、それが蛻ぬくるぞかし。そのほどを尋ねてし給ふぞかし。それこそ心深けれ。蝶は捕ふれば、手にきりつきて、いとむつかしきものぞかし。又蝶は捕ふれば、瘧病せさすなり。あなゆゝしともゆゝし」といふに、いとゞ憎さ増りて言ひあへり。 

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アルフレッド・ヒッチコックの映画「バルカン超特急(The lady vanishes)」は、エセル・ホワイトのスパイ小説を映画化したものである。この映画が公開されたのは、第二次大戦が勃発する直前の時期でもあり、国際社会には戦争への予感が漂っていた。そんななかで各国の諜報戦も華やかだったに違いない。この映画で描かれた諜報戦も、そうしたものの一環として、結構現実感があったことだろう。だから、この映画が、ヒッチコックのイギリス時代のうちで、最大の成功を収めたのも無理はない。

高雄市内観光:アヒルたちの台湾旅行その二

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(高雄港)

六月二十日(土)六時に起床して朝食を済ませると、八時頃観光案内のバスが迎えに来た。ガイドは蔡さんという女性で、我々のほか二組六名が同乗すると言う。大型バスに十一人だから、ゆったりと座れる。

北斎千絵の海(一):総州銚子、五島鯨突

北斎は、富嶽三十六景とほぼ相前後して「千絵の海」と題する連作を発表した。海や川における漁労と水の造形を主題としている。「千絵の海」という題名は、人間と自然との闘いを、「知恵比べ」に比しているのだろう。

ユーディットとホロフェルネス:ゴヤの黒い絵

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聾の家一階食堂正面の壁に、「我が子を食らうサトゥルヌス」の右隣に接して描かれていたのが「ユーディットとホロフェルネス」と題された絵(146×84cm)である。ユーディットは、旧約聖書外典「ユディト書」に出てくる女性であるが、アッシリア王ネブカドネサルによって派遣された将軍ホロフェルネスを、策を用いて寝床に誘い込んだうえに、その首を刎ね、ユダヤ人を危機から救った聖女ということになっている。このテーマは、キリスト教圏の画家たちのインスピレーションを刺激し、ルネサンス以降好んで描かれた。中でも有名なのは、クラナッハの描いたものである。

高雄へ:アヒルの台湾旅行その一

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(高雄三鳳宮)

アヒルの仲間たちと台北に旅したのは八年前、平成十九(2007)年のことであった。七羽のアヒルが参加し、台北中心部のシェラトン・ホテルに二泊して、台北市内の名所を見物したほか、九份に脚を伸ばしたりもした。その折には、結構楽しい思いをしたし、また食事もうまかったので、同じメンバーでもう一度行ってみたいね、ということになった。そんなわけでプランを立てて参加者を募ったところ、五羽が加わることになった。小生のほか、静ちゃんアヒル、少尉アヒル、横ちゃんアヒル、今ちゃんアヒルである。伊豆長岡に旅したときとちょうど同じメンバーである。

蟲愛づる姫君(一):堤中納言物語

蝶愛づる姫君の住み給ふ傍に、按察使の大納言の御女、心にくくなべてならぬさまに、親たちかしづき給ふ事限りなし。この姫君の宣ふ事、「人々の、花や蝶やと賞づるこそ、はかなうあやしけれ。人は實あり。本地尋ねたるこそ、心ばへをかしけれ」 とて、萬の蟲の恐しげなるを取りあつめて、「これが成らむさまを見む。」とて、さまざまなる籠・箱どもに入れさせ給ふ。中にも、 「鳥毛蟲の心深き樣したるこそ心憎けれ」 とて、明暮は耳挾みをして、掌にそへ伏せてまぼり給ふ。

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「三十九夜( The 39 Steps )」は、アルフレッド・ヒッチコック( Alfred Hitchcock )が1935年にイギリスで作った作品である。イギリス人は周知のようにミステリー小説が好きで、シャーロック・ホームズ・シリーズを始め多くのミステリー小説の傑作を生んできたが、映画のほうでもそうしたミステリー小説を好んで題材にした。ミステリー映画を作っていれば、それなりの興行成績が見込めるからだ。そんな中でアルフレッド・ヒッチコックは、ミステリー映画の巨匠と言われた。彼の活動は、サイレント時代から1970年代までの半世紀にも及ぶが、その間にせっせとミステリー映画を作り続け、それらがことごとく評判をとったのであった。

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(東海道金谷ノ不二)

金谷は、大井川の西側にある宿場で、対岸は島田である。この絵は、大井川を金谷側から見た眺めを描いている。怒涛逆巻く川の流れに逆らうように、大勢の人足たちが、旅人を渡している。一人一人背中に担いでいるものもあれば、十人以上で籠を載せた輦台を担いでいる者もいる。

内田樹「街場の現代思想」

表題を読んで、これは現代思想の入門書みたいなものかと思ったのだったが、そうではなかった。この題名を冠した雑誌の連載をそのまま単行本に載せたというのだが、その連載と言うのが一種の人生相談みたいなもので、人間生きて行くうえでの悩みについての仮想の質問に、内田が答えるという体裁のものだった。現代思想を主題的に論じたものとは言えない。内田自身も看板と内容とがマッチしないと考えたのか、単行本に載せるにあたっては、「街場の常識」という看板に付け替えた。この本の後半部分が、それである。

我が子を食らうサトゥルヌス:ゴヤの黒い絵

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聾の家一階食堂入り口を入って正面左手の壁に、「レウカディア」と対面するように描かれているのが「我が子を食らうサトゥルヌス」と題する絵(146×83cm)だ。暗黒をバックに浮かび上がった醜悪な怪物が、子どもを両手で鷲掴みにし、その左腕を食いちぎろうとしている。子どもの頭と右腕は既に食いちぎられていて、その傷跡からは夥しい血が流れ出し、サトゥルヌスの両手を赤く染めている。子どもを貪り食っている怪物の目は、驚愕した人の目のように、怯えた様子に見えるが、それは、我が子を食わねばならぬおぞましい運命に怯えているように見える。

田安門:水彩で描く東京風景

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皇居内堀の外周部には今でも多くの橋と門が残されており、半蔵門を除いては、一般人の立ち入りも許されている。その中でも清水門とこの田安門は、作られた時代の古さや構造の美しさから、文化的な価値の高いものである。

中国は米をしのぐ超大国になるか

「中国は米をしのぐ超大国になるか?」 こんな設問のアンケート調査を、米調査機関ピュー・リサーチ・センターが世界40か国を対象に行った。その結果、全体の平均では48パーセントの人がイエスと答えたそうだ。比較の対象となったアメリカでも、46パーセントがイエスと答え、ノーと答えた48パーセントとほぼ拮抗した。ヨーロッパなど33カ国では、イエスと答えた割合の方が高かった。

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(駿州大野新田)

駿州大野新田は、いまの静岡県富士市の南部。新田というとおり、沼沢地を干拓してできた土地だと思われる。この絵の中景には、その沼沢の名残ともいえそうな湿地帯が広がり、その向こう側に、富士が白化粧をした姿を見せている。

西田幾多郎と禅

西田幾多郎が若年の頃禅に集中していたことはよく知られている。彼は明治三十一年(二十八歳)から約十年間にわたって、それこそ座禅三昧の毎日を過ごした。この時期の西田の日記に眼を通すと、来る日も来る日も座禅の記事が出てくる。とにかく一日中座禅をしている。そして節目ごとに参禅して、禅師と語り合っている。その結果西田は、禅的世界観というようなものを体得したに違いない。違いないというのは、西田自身が、自分の禅体験を正面から語ったことがないからである。その点は、禅について多くを語った親友の鈴木大拙とは違うところだ。

このついで(二):堤中納言物語

「いづら、今は、中納言の君」 とのたまへば、 「あいなき事の序をも聞えさせてけるかな。あはれ、只今の事は、聞えさせ侍りなむかし。」 とて、 
「去年の秋ごろばかりに、清水に籠りて侍りしに、傍に屏風ばかりをはかなげに立てたる局の、にほひいとをかしう、人少ななるけはひして、折々うち泣くけはひなどしつゝ行ふを、誰ならむ、と聞き侍りしに、明日出でなむとての夕つ方、風いと荒らかに吹きて、木の葉ほろほろと、滝のかたざまに崩れ、色濃き紅葉など、局の前には隙なく散り敷きたるを、この中隔ての屏風のつらに寄りて、こゝにはながめ侍りしかば、いみじうしのびやかに、 
  厭ふ身はつれなきものを憂きことを嵐に散れる木の葉なりけり 
風の前なる、と聞ゆべき程にもなく、聞きつけて侍りしほどの、まことにいと哀れにおぼえ侍りながら、さすがにふといらへにくく、つゝましくてこそ止み侍りしか。」 と言へば、 いとさしも過し給はざりけむ、とこそ覺ゆれ。さても實ならば、口惜しきは御物つゝみなりや。

華氏911:マイケル・ムーア

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マイケル・ムーアは社会派のドキュメンタリー作家として有名だ。その代表作「華氏911」はジョージ・W・ブッシュの一期目の政治について痛烈に批判したものだ。公開されたのは2004年の大統領選のさなかで、内容からしてブッシュに対するネガティブ・キャンペーンと受け取られた。この映画がキャンペーンとしてどれくらいの効果を上げたかについては両論ある。ほとんど影響しなかったという見方もあれば、大いに影響したという見方もある。後者の見方をするものは、このキャンペーン映画の影響がなければブッシュは圧倒的な優位で再選されただろうと言う。

日本再建イニシャティブは、朝日新聞を退職した船橋洋一が立ち上げたシンクタンクで、これまで福島原発の事故を検証したいわゆる「民間事故調報告」で知られている。そのシンクタンクが、民主党政権の三年三ヶ月を検証し、その失敗の原因を分析したのが「民主党政権失敗の検証」(中公新書)だ。

身延川裏不二、相州仲原:北斎富嶽三十六景

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(身延川裏不二)

身延川とは、身延山久遠寺の山中から発し、やがて富士川に合流する渓流だとする説と、身延山あたりを流れる富士川そのものだとする説が並立している。どちらにしても、このあたりからは富士は東の方向にあたる。ということは、画面左手が北の方向、久遠寺はその方向にあたる。

二人の老人:ゴヤの黒い絵

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「二人の老人」と題されたこの絵(144×66cm)は、「レウカディア」と対をなすように、つんぼの家一階食堂入り口を入った右手の壁に描かれていた。長い杖を両手で持った老人が修道士のような姿をして立っている。その脇には。醜怪な面相の老人が寄り添うようにして立ち、隣の老人の耳に向って、何事か叫んでいるようである。その図柄を、左手の老人がゴヤ自身で、右手の老人は死神だと解釈するむきもある。たしかに、左手の老人は、耳元で大声を出されても聞こえないように見えるので、ゴヤ自身だと解釈するのも無理はない。だが、実際のゴヤは、この絵の中の老人のような白いひげは生やしていなかった。

このついで(一):堤中納言物語

春の物とて詠めさせ給ふ晝つ方、臺盤所なる人々、「宰相中將こそ參り給ふなれ。例の御にほひ、いと著しるく」などいふ程に、ついゐ給ひて、「よべより殿に候ひし程に、やがて御使になむ。東の對の紅梅の下にうづませ給ひし薫物、今日の徒然に、試みさせ給ふとてなむ」 とて、えならぬ枝に、白銀の壺二つ附け給へり。 中納言の君の、御帳の内に參らせ給ひて、御火取あまたして、若き人に、やがて試みさせ給ひて、少しさし覗かせ給ひて、御帳の側の御座にかたはら臥させ給へり。紅梅の織物の御衣に、たゝなはりたる御髪の裾ばかり見えたるに、これかれそこはかとなき物語、忍びやかにして暫し居給ふ。

イラク~狼の谷:セルダル・アカル

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トルコ映画「イラク~狼の谷」は、イラク戦争をトルコ人の視点から描いたものだ。反米映画のレッテルを貼られているほどアメリカに対する厳しい視線に貫かれている。トルコ国内で爆発的なヒットとなったほか、周辺のアラブ諸国でもヒットした。トルコ人にせよアラブ人にせよ、この映画を通じてアメリカの理不尽な暴力に対してカタルシスのようなものを感じたのだと思われる。

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(東海道品川御殿山ノ不二)

御殿山は品川宿の北側にある小高い丘で、そこからは品川の海が一望できる眺めのよい場所であった。そこに、吉宗の時代に、吉野の山桜が移植され、江戸有数の桜の名所になった。この絵は、その御殿山の桜と、品川の海に浮かんだ富士を描いたものだ。

レウカディア:ゴヤの黒い絵

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聾の家一階食堂の入口を入った手前左手の壁に書かれているのが「レウカディア」と題した絵(147×132cm)である。レウカディアは、妻のホセファ・バイエウが死んだ翌年あたりにゴヤの家の家政婦としてやって来たのだが、すぐにゴヤの愛人になった。彼女がやって来た時、ゴヤはすでに67歳の老人であったが、ホセファに20人もの子を宿らせたほどの勢力はまだ衰えておらず、早速彼女にも子を授けたのであった。その時レウカディアは人妻の身であったが、カトリックのスペインでは離婚が許されなかったので、彼女は不倫という形で、ゴヤと結びついたのだった。その後レウカディアは、ゴヤが死ぬまで一緒に暮し、ゴヤの死をみとった。

西田幾多郎の晩年のキーワードのひとつに「絶対矛盾的自己同一」がある。西田の哲学タームには意味の判然しないのが多いのだが、中でもこの「絶対矛盾的自己同一」という言葉は飛び切り理解しづらい。第一、「絶対矛盾的」という言葉からしてわからない。矛盾と言うのは、ある事柄がAでもあり、かつ非Aでもあることは成り立たないということを指す。あるいはAとBとが同時には成り立たないような事態を指す。いづれにしても、一つの事柄の二つの異なった在り方の相対的な関係について言われることだ。それに西田は「絶対」という形容詞をかぶせる。これは形容矛盾ではないのか。

花櫻折る中將(三):堤中納言物語

夕さり、かの童は、ものいと能くいふものにて、事よくかたらふ。 「大將殿の常に煩はしく聞え給へば、人の御文傳ふる事だに、伯母上いみじく宣ふものを」 と、同じ心にて、めでたからむ事など宣ふ頃、殊に責むれば、若き人の思ひ遣り少きにや、 「よき折あらば、今」 といふ。御文は殊更に、氣色見せじとて傳へず。光遠參りて、 「言ひ趣けて侍る。今宵ぞよく侍るべき。」 と申せば、喜び給ひて、少し夜更けておはす。

第三の男( The Third Man ):キャロル・リード

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キャロル・リード( Carol Reed )の1949年の作品「第三の男( The Third Man )」は、映画史上に残る傑作との評価が高い。日本での評価も高く、筆者のようにこの映画が日本で公開されたときにはまだ幼児だったものでさえ、同時代の映画として記憶しているくらいだ。映画館やテレビで繰り返し上映されたためだろう。それほどこの映画は、大きな反響を呼んだ。

NHKスペシャル「沖縄戦全記録」を見た。今年が戦後70周年であり、また先の大戦最後の日米決戦となった沖縄戦からも70周年にあたるというので、特集を組んだのだろう。沖縄戦については、まだ全貌が明らかにされていないと言われるので、こうした特集番組も意義を失っていないと思う。いづれにせよ、NHKとしては久しぶりに報道のプロとしての意気ごみを感じさせた番組と言える。

佐藤優・斎藤環「反知性主義とファシズム」

題名を読んでまず連想したのは、安部晋三の登場によって一気に元気になったこの国の反知性的な言動や、全体主義の芽を論じているのではないかということだった。斎藤環は、ヤンキーという言葉を用いて、この国の一部に見られる反知性的な傾向を分析してきた人だと思っていたし、佐藤優のほうは、この国の権力についてシビアな見方をしてきた人だから、この二人が、日本の反知性主義とファシズムを論じるのは時宜を得た企画だと思ったからだ。

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(本所立川)

本所立川は、本所地区の南部を貫く運河。それが隅田川に合流する河口付近は材木の置き場だったようだ。この絵は、その材木置き場から眺めた富士を描いたもの。富士は林立した材木の影から、白く染まった頂を覗かせている。

ゴヤの黒い絵

フランシスコ・デ・ゴヤ(Francisco José de Goya y Lucientes 1746年3月30日-1828年4月16日)は、72歳を過ぎた高齢で(1819年)、マドリード近郊にあった通称「聾の家」という建物を買った。所有者が聾唖者であったことからこう名付けられた家に、自身も耳の不自由だったゴヤが何かの因縁を感じて買ったのだろうと推測されている。ゴヤはこの家の、一階食堂と二階サロンの壁に、十四点の壁画を描いた。今日「黒い絵」と称されている連作である。

花櫻折る中将(二):堤中納言物語

日、さしあがるほどに起き給ひて、昨夜の所に文書き給ふ。 「いみじう深う侍りつるも、ことわりなるべき御氣色に出で侍りぬるは、辛さも如何ばかり」 など、青き薄樣に、柳につけて、 
  さらざりし古よりも青柳のいとゞぞ今朝はおもひみだるゝ 
とて遣り給へり。 返り事めやすく見ゆ。 
  かけざりしかたにぞはひし絲なれば解くと見し間にまた亂れつゝ 
とあるを見給ふほどに、源中將・兵衞佐、小弓持たせておはしたり。 

オセロ:オーソン・ウェルズ

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シェイクスピアの四大悲劇といわれる作品群の中で、「オセロ」は一風変わった趣の作品だ。普通「悲劇」といえば、運命の巨大な波に翻弄される個人の悲惨さを描くものだが、この作品には、運命の過酷さとか個人の英雄的な戦いとかいった要素は伺われない。ここにあるのは、運命ではなく個人の愚かさであり、戦いではなく自滅である。愚かな男が嫉妬の妄想に駆られて愛する新妻を絞め殺してしまう、絞め殺した後で、その男は自分のしたことの意味が納得できないでいる。こういう設定は普通喜劇の枠に入れられるべきものなのだが、シェイクスピアはそれを悲劇に仕立て上げた。喜劇的な要素が悲劇的な膜に包まれて現れるわけだから、見せようによっては破綻した印象を与える。そういう意味で難しい作品だといえる。

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(東海道江尻田子の浦略図)

東海道江尻の里の田子の浦は、万葉歌人山部の赤人が歌って以来、富士眺望の絶景ポイントとして知られてきた。富士とは切っても切れないところだというので、近年富士が世界遺産に登録されるにあたり、一緒に登録されたほどだ。

内田樹「知に働けば蔵が建つ」

題名からして、知識を活用して懐を豊かにする話が書いてあるのかと思うのは、筆者のみではないと思うが、この本にそれを期待する人は裏切られた気分になるだろう。この本のどこにも、金儲けのヒントは書かれていないからである。そのかわり、人を激昂させることの意義が書かれている。人を激昂させるとは穏やかな話ではないが、文章の命と言うものは、人を怒らせることにかかっていると言うのだ。人を怒らせない文章と言うのは、誰にとってもどうでもよい文章なので(たとえば「天声人語」のように)、人々の記憶から速やかに消え去ってしまう。ところが人を怒らせる文章と言うのは、どこかしら本質に触れるところを含んでいる。本質的な文章と言うのは、それなりに長持ちするというのである。

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セザンヌは、静物画と並んで人物画もよく描いた。だが、セザンヌの人物画の描き方は一風変わっていた。人物画と言えば、モデルの人柄とか雰囲気とかがおのずと漂ってくるように描くのが普通のやり方だが、セザンヌの絵の中の人物たちは、そうした人間的な個性というものを感じさせない。まるで、人間の姿形をした静物であるかのように、人物を描いている。

外交官の家

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これも10年以上前のスケッチをもとに描きなおした水彩画。季節は秋であった。同じく当時のコメントを併催する。

東海道程ヶ谷、相州江の島:北斎富嶽三十六景

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(東海道程ヶ谷)

東海道程ヶ谷は、日本橋を出立して四つ目の宿場。松並木がトレードマークだったらしく、北斎はその松並木の合間から覗いた富士を描いている。この松並木の描き方がユニークだ。一本ずつ規則的に並ぶのではなく、二本ずつ対をなしながら並んでいる。このように松を二本一対にするのは、当時流行っていた盆栽の趣向で、文人文様の双樹と言った。北斎は盆栽の趣向をこの絵の中に取り入れたようなのだ。

行為的直観:西田幾多郎を読む

行為的直観の概念は、弁証法的一般者とともに、西田の後記思想の鍵となるものである。弁証法的一般者の概念は、社会的・歴史的存在としての人間に着目したうえで、個物としての人間を限定する一般者の側に焦点をあてたものであるが、行為的直観は個物としての人間の側に焦点をあてたものである。個物としての人間が、抽象的な人間としてではなく、あるいは生物的存在としてではなく、社会的・歴史的な存在として、世界に実践的に関わっていく、その在り方に焦点をあてたものなのである。それ故、弁証法的一般者と行為的直観とは、メダルの裏表のような関係にある。

花櫻折る中将(一):堤中納言物語

月にはかられて、夜深く起きにけるも、思ふらむ所いとほしけれど、立ち歸らむも遠きほどなれば、やうやう行くに、小家などに例音なふものも聞えず。隈なき月に、ところどころの花の木どもも、偏に混ひぬべく霞みたり。今少し過ぎて、見つる所よりもおもしろく、過ぎ難き心地して、 
  そなたへと行きもやられず花櫻匂ふ木陰に立ちよられつゝ 
とうち誦じて、「早くこゝにもの言ひし人あり」と、思ひ出でて立ち休らふに、築地の崩れより、白き物の、いたう咳ぶきつゝ出づめり。

マクベス( Macbeth ):オーソン・ウェルズ

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オーソン・ウェルズはシェイクスピアが好きだったようで、三つの作品を映画化している。最初は「マクベス( Macbeth )」。シェイクスピア劇の中でも、もっとも多く映画化されたもので、ウェルズの1948年のこの作品は六度目の映画化だという。彼はこれを独自の視点から映画化した。

吉田松陰の危うさ

一部で吉田松陰がミニブームになっているようだ。総理大臣の安倍晋三が、長州人としてのアイデンティティを正面に押し出し、ことあるごとに吉田松陰を話題に引っ張りだしているほか、NHKが松陰をテーマにしたゴマすり番組を放送するなど、クローニージャーナリズムによる松陰礼賛がさかんなことが背景にあるらしい。

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(相州箱根湖水)

箱根の芦ノ湖から見た富士。元箱根あたりから見ると、現在でもほぼ同じように見える。ただし、富士はもっと大きく見えるはずだ。右手の建物は箱根神社だろう。

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「花瓶のある静物(Nature morte au vase pique-fleurs)」と題した1905年のこの絵は、1899年に完成した前掲の二作、「カーテンと水差しのある静物」及び「リンゴとオレンジ」と同じモチーフを描いている。セザンヌは1890年代の末から2000年代の初頭にかけて、このモチーフを6点描いたが、これはそのうちの最後のものである。

安倍総理大臣が、G7への出席途上ウクライナに立ち寄り、共同声明を出した。「力による現状変更を決して認めず、法の支配、主権、領土の一体性を重視していく」というものだ。これがロシアによるクリミア半島の併合と、東ウクライナのさらなる併合へのロシアの野心を非難しているのは明らかだ。併合とはありていに言えば他国の領土の侵略にほかならない。領土をロシアによって侵略されたという点では、日本はウクライナと同じ立場にあるわけだから、今回の共同声明には相当の理があるといわねばなるまい。日本は今後、ロシアとの間で同じような問題を抱えている国と協力して、ロシアによる他国侵略の歴史を糾弾し、できうれば侵略された領土の回復に努めねばならない。

堤中納言物語を読む

堤中納言物語は、現存するわが国最古の短編物語集であり、また、ショートストーリーズの祖形の一つとして、世界文学史上にユニークな地位を占める。10編の短編小説からなり、そのどれもが独特な味わいをかもし出す。物語の意外性や描写の細やかさなど、短編小説として優れたものが多い。そんなところから、21世紀のいま読んでも、新鮮さを感じさせる。日本文学史上の奇貨といってよい。

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1953年の映画「ローマの休日(Roman holiday)」は、何といってもオードリー・ヘップバーン(Audrey Hepburn)を一躍世界的な大女優にした映画だ。とにかく彼女の人気は瞬間湯沸かし器のように沸騰し、世界中がその美しさと華麗さに見とれた。日本も例外ではない。というよりか日本人は、世界のどの国の人々よりもオードリーの魅力の虜となったといってよい。この映画は、そんなオードリーの魅力を十二分に映し出していた。さすがは映画作りの名手ウィリアム・ワイラー(William Wyler)のなせる技であった。

内田樹「街場の中国論」

この本のあとがきで内田は面白いことを言っている。この本は自分自身に読ませるために書いた本だというのだ。というのも、他に読みたくなるような本がないときには、自分自身でそれを書く、それが内田の流儀だと言うのだ。そこで、自分で書いた本なんて、知っていることばかりで新しい発見がなく、面白いはずがないだろうという疑問が湧くところだが、その心配には及ばないのだと内田は言う。なぜなら、自分にとって面白い箇所は、「書く前にはそんなことを考えたことがなく、書き終わったあとは忘れてしまったこと」だからと言うのである。そんな理屈もあったものかと、感心した次第だ。

上総の海路、登戸浦:北斎富嶽三十六景

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(上総の海路)

この絵は、上総の海から富士山を望んだところを描いたもの。手前の二艘の船は弁財船といって、大量の荷を迅速に運ぶために作られた船。上総の木更津と江戸前を結んでいたものだ。その船を北斎は実に念入りに描いているが、実際の姿とは違うという指摘もある。帆はもっと大きかったはずだと言い。また、操舵をする船の後部にこんなに多くの荷を積むことはなかったと言うような指摘だ。

衆議院の憲法審査会で、各党の推薦で参考人として招致された憲法学者三人がそろって、安倍政権が成立を目指している新たな安全保障関連法案について、違憲であるとの意見を述べた。その中には自民党が推薦した早大教授長谷部恭男氏も含まれていたというので、自民党では大騒ぎになったそうだ。

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セザンヌは髑髏のオブジェをいくつか所有していて、それらをモチーフに何点か描いている。「髑髏のある静物(Nature morte au crane)」と題した1900年のこの絵は、その代表的なものだ。

山手二三四番館

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10年以上前にスケッチしたものを、描きなおしてみた。もとのスケッチに添付した文章を併せて紹介する。

クローニー・ジャーナリズム

イエロー・ジャーナリズムという言葉がある。日本の多くの週刊誌と一部の新聞紙がこれに含まれる。扇情的な物言いで読者の関心を煽ることを得意とするジャーナリズムだ。また、クローニー・キャピタリズムという言葉もある。主に発展途上国の経済について言われるもので、権力と結託した利権的な資本主義経済のことをさして言う。

下目黒、隠田の水車:北斎富嶽三十六景

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(下目黒)

目黒一帯は起伏に富んだ丘陵地だ。その地形を生かして、将軍の鷹狩の場となった。この絵は、二人の鷹匠を描き入れることで、鷹狩の本場としての目黒と富士の組み合わせを強調したものと思われる。

弁証法的一般者:西田幾多郎を読む

西田の(中期以降の)思想の最も大きな特徴は、再三言及したように、一般者の自己限定によって個物及び個物からなる世界全体が生じるというふうに考えることにある。判断的一般者が自己限定することで自然界が、自覚的一般者が自己限定することで意識界が、叡知的一般者が自己限定することで叡知的世界が生じる。ところが、晩年の西田は、これとは別に弁証法的一般者という言葉を多用するようになる。これは叡知的一般者以下の従来の一般者の概念に完全にとって代わるようなものではなく、一般者というものを、個物とのダイナミックな関連において捉えなおした、いわば操作的な概念である。

伊勢物語絵巻百二十五段(つひにゆく道)

むかし、男、わづらひて、心地死ぬべくおぼえければ、
  つひにゆく道とはかねて聞きしかどきのふけふとは思はざりしを

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フィリップ・ノイスのオーストラリア映画「裸足の1500マイル(Rabbit-Proof Fence)」は、1930年頃のオーストラリアにおける、白人による原住民の人種差別的な政策を取り上げたものである。この頃、西オーストラリア州では、原住民(アボリジニ)と白人との間の混血児は、白人社会へ同化させるために、強制的に親から引き離され、施設に収容されていた。この映画は、そうした施設に収容された混血児の少女たちが、施設を脱出して1500万マイルの距離を歩き抜き、ついには親の元へ帰還するという物語である。

豊穣たる熟女の皆さんと久しぶりに会った。新年会の際に、夏にはどこかにハイキングでもしたいねと言っていたので、秩父あたりで遊ばないかと誘ったところ、三人とも身体のどこかに故障を生じて、とてもハイキングどころではありませんという返事が返ってきた。それじゃあ、なにかうまいものでも食いながらおしゃべりをしようということになった。うまいものを食いながらおしゃべりするほど楽しいことはないから。そんなわけで、新年会の時同様船橋で待ち合わせ、西武デパートの中にあるフェルマータというイタリア料理店に入った次第だった。

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(隅田川関屋の里)

関屋の里は、現在の足立区千住関屋町のあたり、隅田川が大きく湾曲する部分の北岸にあたる土地だ。そこから富士を見ると、間に隅田川がはさまることになるが、この絵の中には、隅田川は描かれていない。事情通の眼から見ると、これは不可解な構図だといえる。

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1899年に描かれた「リンゴとオレンジ(Pommes et oranges)」と題するこの絵も、やはり同年に描かれた「カーテンと水差しのある静物」(前掲)とほぼ同じ対象をモチーフとしている。ただ、アングルとモチーフの配置が幾分か異なっている。

伊勢物語絵巻百二十一段(梅壺)

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むかし、男、梅壺より雨にぬれて、人のまかりいづるを見て、
  うぐひすの花を縫ふてふ笠もがなぬるめる人に着せてかへさむ
返し、
  うぐひすの花を縫ふてふ笠はいなおもひをつけよほしてかへさむ

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