第三の男( The Third Man ):キャロル・リード

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キャロル・リード( Carol Reed )の1949年の作品「第三の男( The Third Man )」は、映画史上に残る傑作との評価が高い。日本での評価も高く、筆者のようにこの映画が日本で公開されたときにはまだ幼児だったものでさえ、同時代の映画として記憶しているくらいだ。映画館やテレビで繰り返し上映されたためだろう。それほどこの映画は、大きな反響を呼んだ。

先日DVDで見直してみたが、全く古さを感じさせない。いぶし銀のような光を放っている。きびきびとした画面展開、人をはらはらとさせる筋運び、ウィーンの町並みを映し出す映像の美しさ、そして映画音楽の古典となったあのツィターの調べ、どれをとっても秀逸だ。しかも、この映画が展開する時間と空間の流れは、同時代の歴史的な雰囲気をそのままに詰め込んでいる。この映画は、第二次大戦直後のウィーンの町のドキュメンタリー記録としても優れている。

ジャンルとしては、一応犯罪映画に入るのだろう。友人の死を不審に思った男が、そこに犯罪の匂いを感じ、死の真相を追究しているうちに、死んだと思った友人がいきなり現れる。実は、死んだ男は友人の仲間なのであり、それを殺したのが友人だったと言うわけなのだ。この友人が仲間を殺したわけは、警察の追及を逃れるためで、なぜそんなことになったかと言えば、この男は戦後のウィーンの闇市場を舞台に大胆な犯罪活動を展開していたからだった。友人は男に仲間に入るように誘うが、男はそれを断り、かえって警察による友人の逮捕に力をかす。それは、愛し始めていたある女(友人の恋人)を窮地から救い出すためだった。

というわけで、犯罪追求にからむサスペンスと男女の愛がもつれ合って、独特の雰囲気をかもし出す。それがウェットにならずにドライな展開を見せるのは、やはりイギリス映画の名匠キャロル・リードの手柄によるものだろう。

キャスティングは主人公の男・三文作家のホリー・マーチンスにジョゼフ・コットン( Joseph Cotton )、彼の追及する友人ハリー・ライムにオーソン・ウェルズ( Orson Wells )、ライムの恋人アンナ・シュミットにヴァリ( Valli )、国際警察官のキャロウェイ少佐にトレヴァー・ハワード( Trevor Howard )だ。ジョゼフ・コットンとオーソン・ウェルズは「市民ケーン」以来の監督・俳優としてのコンビだが、この映画では二人そろって俳優として出ているわけだ。オーソン・ウェルズが俳優としての名声を確立したのは、自分の映画よりもこの映画によるところが大きい。トレヴァー・ハワードは「逢引き」で地味な中年男を演じていたが、この映画ではクールな軍人を演じている。

舞台は第二次世界大戦終了直後のウィーン。半ば廃墟と化したウィーンの町を、英米仏ソの四カ国が共同統治している。ウィーンの市民生活はまだ混乱したままであり、物資の不足を闇経済が補っているのは、同時代の東京と同じだ。そこへ三文作家のホリー・マーチンスが友人のハリー・ライムを頼ってやってくる。すると思いがけないことに、まさにライムの葬儀が行われているところだった。ライムは、自分のアパートの前で、トラックにはねられて死んだと言うのだ。マーチンスは、葬儀の参列者などから、ライムの死んだときの様子を聞いてまわったが、どうも腑に落ちないことがある。ライムの死の前後に登場する人物がすべてライムの知り合いであり、部外者が一人もいないのだ。そのうちに、ライムの死の様子を目撃していたと言うアパートの門番が、それをマーチンスに話す。ライムが死んだときに、警察の取調べでは、その遺体を二人の男で運んだということにされているが、実はそこには第三の男がいたという内容だった。マーチンスは、この第三の男がライムの死の真相を知っているのではないかと思い、その男を捜す。そしてついにその第三の男と出会う。実はその男こそ、ハリー・ライム本人だったと言うわけなのだ。ライムは、手下のハービンという男を自分の身代わりにして殺し、自分自身の死を偽装していたのである。

事件の真相を知ったマーチンスは、キャロウェイ少佐からライム逮捕への協力を要請されるが拒絶する。友人を裏切るわけには行かないと思うからだ。だがその気持ちが揺らぐ事態が起こる、ひとつはライムの犯罪によって大勢の罪もない子どもたちが苦しんでいる有様を目撃したこと、もう一つは、アンナがソ連軍によって共産圏であるチェコに送還されそうになったことだ。アンナを愛し始めていたマーチンスは、アンナを助けることと引き換えにハリー・ライムを売るという決断をする。

こうしてクライマックスは、ハリー・ライムの逮捕をめぐるサスペンスからなる。逃走するハリーをマーチンスとキャロウェイらが追う。ライムはウィーンの下水道の空間を逃走する。その後をマーチンスらが追うわけだが、そのシーンがものすごい迫力だ。ウィーンの下水道は、巨大な本管から無数の子管が伸びていて、迷路のようになっている。その迷路の中をハリー・ライムが逃げ回り、その後を警察が追いかける。ハリーは次第に追い詰められ、袋小路に迷い込んだところをマーチンスに追いつかれる。かくして、マーチンスに撃たれて、今度は本当の死を遂げるわけである。

ラストシーンは、本物のハリー・ライムを埋める場面だ。無論マーチンスも参列する。アンナも参列したが、彼女はハリーを売ったマーチンスを許せないでいる。葬儀からの帰り道、マーチンスは先回りしてアンナのやってくるのを待っていたが、アンナはそんなマーチンスの前を、何も見えないとでもいうかのように、通り過ぎていくのである。

この最後の場面が一つの見せ所になっているのだが、この映画はさすがに傑作といわれるだけあって、他にも見せ所が多い。深夜のウィーンの町が幻想的に映し出されるところや、門番の子どもがマーチンスを父親殺しの犯人と勘違いして叫び続ける場面、公道のど真ん中に飛び出した下水道への導入塔など。また、ウィーンの遊園地の観覧車も見ものだ。この観覧車の中でマーチンスはハリー・ライムと再会するのだが、そのときにハリーの言うせりふ、「争いつづきのイタリアはルネサンスを生んだが、500年も平和だったスイスが生んだのは鳩時計だけだ」は一躍有名になった。このせりふはオーソン・ウェルズ自らが考え出したものだそうだ。








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