行為的直観:西田幾多郎を読む

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行為的直観の概念は、弁証法的一般者とともに、西田の後記思想の鍵となるものである。弁証法的一般者の概念は、社会的・歴史的存在としての人間に着目したうえで、個物としての人間を限定する一般者の側に焦点をあてたものであるが、行為的直観は個物としての人間の側に焦点をあてたものである。個物としての人間が、抽象的な人間としてではなく、あるいは生物的存在としてではなく、社会的・歴史的な存在として、世界に実践的に関わっていく、その在り方に焦点をあてたものなのである。それ故、弁証法的一般者と行為的直観とは、メダルの裏表のような関係にある。

弁証的一般者の概念がマルクス主義からの挑戦を意識しながら持ち出されたということは先稿で述べたとおりだが、行為的直観の概念もまたマルクス主義を意識している。西田はマルクス主義者の史的唯物論と自分の行為的直観とがどのような関係にあるのか、次のように率直に述べている。

「史的唯物論者は対象、現実、感性という如きものが、従来客観または直観の形式のもとに捉えられて、感性的・人間的活動、実践として捉えられなかった、主体的に捉えられなかったという。対象とか現実とかいうものを、実践的に、主体的に捉えるということは、行為的直観的に物を見ることでなければならない・・・どこまでも理論は実践の地盤から生まれるこということでなければならない」(西田「行為的直観」)

つまり、史的唯物論者が実践的・主体的活動と呼んでいるものが、自分のいう行為的直観に相当するというわけである。だが、マルクス自身は、人間の実践的な活動を直観などとは言わなかった、それを西田が何故直観という言葉で呼んだか。それにはそれなりのわけがある。

西田にとっては、現実の実在性は直観によってのみもたらさせる。直観の直接的な所与性、それのみが現実の実在性を保障する。それ以外のものはすべて、直観から派生したものである。こう考えるのが、初期の純粋経験からの西田の一貫した立場だ。

しかし単に直観という言葉を使うと、どうしてもそこには受動的で静的なイメージが付きまとう。そうしたイメージは人間の活動の実践的な性格とは相いれないし、第一直観と行為とは別物だというのが、伝統的な解釈だ。それを何とか妥協させて、直観に積極的なイメージを付与し、それに実践的な性格を持たせたい。西田はこう考えて、行為的直観なる概念を作った、というのがどうも真相のようだ。行為に媒介された直観ならば、実践的・主体的という言葉も無理筋ではなくなる。

さて、行為的直観の主体としての人間は、従来の哲学者たちが前提としてきたような、単なる認識の主体としての抽象的な存在ではない。それはまず身体としての存在である。人間とは身体を以て現実的世界との実践的な係わりをしていく存在なのだ。単に認識だけが人間の人間としてのあり方ではない。人間とは、身体を通じて世界とかかわり合う具体的な存在なのだ。つまり人間とは「行為的直観的に見られるもの、身体的に把握せられるものでなければならない」(同上)

人間は身体としての存在であるばかりではない。単なる身体ならば、動物たちと何ら変わるところはない。人間の人間たる所以は、人間が社会的・歴史的存在であることだ。であるから、人間としての身体は、社会的・歴史的身体でなければならない。「ここに身体というものは単に生物的身体というものを意味するのではなく、私のいわゆる歴史的身体的なものをいうのである」(同上)

こうして西田の人間観は一気に豊かな内実を伴うようになる。人間はまず、単なる抽象的な認識主体であることを超えて、身体を伴った、物の堅固さを供えた存在である。しかしその身体は単なる生物的な身体であるにとどまらない。それは社会的・歴史的身体として、世界と実践的に関わり続ける身体である。だが、人間は孤立した存在として世界とかかわるわけではない。人間が社会的・歴史的存在であるという定義には、人間というものが種としての存在であるということが含まれている。個々の人間は、種としての人間のひとつのあらわれに過ぎないのである。このことを西田は、次のように言っている。

「現実が行為的直観的というのは・・・我々の行為というものが種的であり、更に歴史的制作的であるというのである」(同上)

ここで西田が「種的」という言葉で言っていることは、マルクスが「類的存在」と言っていることに対応していると考えてよい。マルクスは、人間を一人一人弧絶した存在として捉え、人間の社会をそうした孤立した存在同士のかかわりあいから生まれるとする伝統的な見方を覆して、人間をまず類的存在として捉え、個々の人間をその一員として捉えた。人間は類的本質によって規定されていると同時に、実践を通じて類的本質に限定を加える、そのようなダイナミックなプロセスを生きる、極めて動的な存在なのだ。

動的という意味では、西田も「衝動的」というような言葉を使っている。この言葉は、とりあえずは人間の身体としての側面に焦点をあてているが、もっと踏み込んで、人間が世界内存在として社会的・歴史的身体であることの象徴的表現としての意味合いをもっているとも考えられる。







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