オセロ:オーソン・ウェルズ

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シェイクスピアの四大悲劇といわれる作品群の中で、「オセロ」は一風変わった趣の作品だ。普通「悲劇」といえば、運命の巨大な波に翻弄される個人の悲惨さを描くものだが、この作品には、運命の過酷さとか個人の英雄的な戦いとかいった要素は伺われない。ここにあるのは、運命ではなく個人の愚かさであり、戦いではなく自滅である。愚かな男が嫉妬の妄想に駆られて愛する新妻を絞め殺してしまう、絞め殺した後で、その男は自分のしたことの意味が納得できないでいる。こういう設定は普通喜劇の枠に入れられるべきものなのだが、シェイクスピアはそれを悲劇に仕立て上げた。喜劇的な要素が悲劇的な膜に包まれて現れるわけだから、見せようによっては破綻した印象を与える。そういう意味で難しい作品だといえる。

このように難しい作品を、映画作りの鬼才と言われたオーソン・ウェルズがどのように料理したか。彼のシェイクスピア劇映画化の第二弾である「オセロ」は、そういう点で興味をそそるわけだが、結論を先取りして言えば、成功したとはいえないようだ。原作にある「悲劇的要素」がずっと後退し、その分喜劇的要素が前面に出てくるのだが、それも喜劇としては中途半端なものであるために、この映画が果たしてなにをもくろんでいるのか、観客にははっきり伝わらない。悲劇としては悲しくもなく、喜劇としては面白くもない、要するに中途半端なのだ。

大体、分別を持った男が、結婚したばかりの妻、それも多大な努力の末にやっと手に入れた、身分不相応とも言える高貴で美しい妻を、悪党にそそのかされたとはいえ、嫉妬のあまりに殺してしまう、ということ事態が不自然であるのに、その不自然なことの成り行きを、微に入り細にわたって延々と描いていくというのが原作の趣だった。原作の場合には、事柄の不自然さを描写の微細さでカバーするというところがあって、それがあるために、オセロの異常な行動も、なんとかわかったような気持ちになるのだが、オーソン・ウェルズは、そうした微細さを省略しているために、オセロがなぜこんなにも異常な嫉妬に駆られてしまうのか、そのわけがよくわからない、といった状態に観客は陥る。観客の目には、オセロがわけもなく嫉妬に狂った馬鹿者のようにしか映らないわけである。

オーソン・ウェルズの映画の中のオセロは、腹心の部下イヤーゴの言葉にこともなげに騙され、その真偽を確かめようともしないままに、妻のデスデモーナに疑問を抱き、さらにはデスデモーナと間男のセックスを妄想し、激しく嫉妬する。それも、たいした前置きもなく、いきなりそうなってしまうのだ。なぜオセロがイヤーゴの言葉にころりと騙され、愛する妻を疑うようになったか、それがこの劇の最大のポイントであるから、原作はそこのところに十分の時間を割り当てて微細に説明している。この説明があるために、オセロの異常な嫉妬にも、それなりの理由があるのだと腑に落ちるようになっている。ところが映画では、オセロはいきなり狂ってしまうので、彼の嫉妬には理由があるというふうにはならない。彼は悪意を持った人物の言葉にころりと騙される愚かな男としか映らないわけである。

繰り返すようだが、愚かな人間の馬鹿げた行為は、普通は喜劇のテーマだ。そういう男は、道化のようなものとして描かれる。ところが、この映画では、その道化であるはずの男が悲劇の主人公面をしている。そこが観客にとっては、なんとも消化不良になるところなのである。

原作には道化が出てくる場面がある。その道化は、「貸せる耳はないが、聞く耳ならある」といって、世の中の馬鹿げたことを、この耳でしっかり聞いているぞと言うわけなのだが、映画の中では、この場面は出てこない。オセロ自身が馬鹿=道化になっているから、もう一人の道化はいらないと言っているように思える。もしそうなら、オーソン・ウェルズはオセロを道化として解釈していたのかと言いたくなるが、かならずしもそうではないらしい。オセロを演じるオーソン・ウェルズには道化の表情はないからだ。このオセロは、ただ狂っているだけで、馬鹿ではないのだ。世の中には、狂っていながら馬鹿ではないというケースもありうるのだ、というわけだろうか。

こういうわけで、全体的な印象としては、突っ込み不足で中途半端という感じを抱かされるが、ところどころに、ウェルズらしい洒落た工夫を織り込んである。その一つが冒頭シーン。これは葬送の場面で、何人かの死者が人々に担がれて墓場に向かうところが映される一方、一人の男が狭い檻に詰め込まれて空中高く吊るされる場面が出てくる。このシーンの意味は映画のラストシーンで明らかにされる。墓場へと向かう使者たちは、自殺したオセロとオセロに殺されたデスデモーナ及びイヤーゴに殺された侍女エミリア、吊るされる男はイヤーゴなのだ。原作には、こんなシーンに対応するところはないので、これはウェルズ独自の工夫だ。

キャシオーがロダリーゴを追いかけるシーンは、映画の中では地下水道の中ということになっている。ローマはともかく、この時代のキプロスにこんな手の込んだ土木施設があったのかどうか、興味深いところだ。また、イヤーゴがキャシオーを殺そうとするシーンは、公衆浴場の中でのことになっている。これも面白いところだ。

なお、原作に、ムーア人(イズラム教徒)に対するシェイクスピアの偏見が反映されていることは、よく指摘されるところだ。オセロは、ムーア人でありかつ黒人ということになっている。そういう人間だからこそ、ヨーロッパ的な価値観とは違う価値観を抱いているのであって、そうした異常な価値観が、異常な行動の原因なのだ、とシェイクスピアは信じていたフシがある。この映画にも、そうした偏見が増幅された形で反映されているのではないか。そう思われないでもない。







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