佐藤優・斎藤環「反知性主義とファシズム」

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題名を読んでまず連想したのは、安部晋三の登場によって一気に元気になったこの国の反知性的な言動や、全体主義の芽を論じているのではないかということだった。斎藤環は、ヤンキーという言葉を用いて、この国の一部に見られる反知性的な傾向を分析してきた人だと思っていたし、佐藤優のほうは、この国の権力についてシビアな見方をしてきた人だから、この二人が、日本の反知性主義とファシズムを論じるのは時宜を得た企画だと思ったからだ。

ところが、読み始めて驚いた。まず、AKB48についての締りのないおしゃべりが延々と続く。筆者はAKB48については、ほとんど知るところがないが、それにしてもこの二人のAKB48についてのおしゃべりは締りがないというべきだ。おしゃべりのついでに、このグループを通じて見た日本の反知性主義とかファシズムについての分析がなされるのかと思ってもみたが、最後までそういう分析は出てこず、筆者にはほとんど意味のないおしゃべりが続いた。それは、オタクの薀蓄を聞かされているようなもので、オタクと趣味を共有できないものには全く意味を成さない代物だ。

AKB48に続いて、村上春樹についてのおしゃべりだ。これもまた、反知性主義とファシズムとは何の関係もない。ただ、村上春樹をどう思うか、それぞれの感想がだらだらと述べられるだけだ。二人が村上春樹をどのように感じているかは、二人の勝手だとは思うが、そんなものを聞かされてうれしがる読者は一人もいまい。

話題がアニメ作家宮崎駿に及んでやっと、日本のファシズムについてのコメントが出てくる。それも、宮崎駿は「ふやけたファシズム」だという、佐藤優の電撃的な発言だ。佐藤は、宮崎駿のほか宮沢賢治もファシズムを愛したようなことを言っている。日頃から、宮沢駿や宮沢賢治をファシズムと結びつける習慣を持たなかった筆者には、この指摘はずいぶん乱暴だなあ、と思えた。なぜ、彼らがファシズムなのか。

宮崎駿の場合は、「風立ちぬ」のなかでゼロ戦の設計者堀越二郎を賛美していることが、彼がファシストである証拠だということらしい。堀越はゼロ戦の設計を通じて日本の軍国主義に加担したわけだからファシストなのであり、宮崎はそのファシストを賛美しているからやはりファシストなのだという理屈のようである。宮沢賢治の場合には、ファシスト団体である国柱会に強いかかわりをもったことがその理由になっているようだ。

しかし、よく考えてもらいたい。宮崎も賢治も、ファシスト個人や団体と多少の接点は持ったことがあるかもしれないが、なにも正面からファシストの理念を掲げて、人々を全体主義に駆り立てたわけではない。にも関わらず、佐藤がこの二人をファシスト呼ばわりするのは、彼独特の言葉の定義によるものだろう。

ファシズムという言葉の定義については、いまだにスタンダードなものが確立されているとは言えないが、一応、政治的な運動であるというのが共通の理解だろう。権力を目指し、あるいは権力を掌握した政治勢力が、人々を国内的には全体主義へ、対外的には侵略戦争に駆り立てる。その過程で、排外主義的なナショナリズムを煽り立て、同調しない人々を呵責なく弾圧する、というのが、イタリアのファッショ、ドイツのナチ、そして日本軍国主義の共通の特徴である。その場合に強調すべきなのは、ファシズムが政治的な運動だということだ。その運動に、一般の大衆がかかわり、いわば下から、ファシズムを支えることはある。だが、基本は権力による政治的な運動だということだ。そこを見失うと、佐藤のような解釈が飛び出してくる。

佐藤は、ファシズムを、イタリア語のファッショが「束ねていく」を意味すると言う語源学的な手がかりをもとに、人々が同調していく傾向を基本とし、その中で美とテクノロジーとが結びつき、心理観がダイナミック、つまり生成概念を中心にしていることだと定義している。要するに、政治的な運動と言うよりも文化的な現象という具合に捉えているわけだ。だから勢い、ファシズムを論じながら、政治のことは視野の端っこに追いやられ、もっぱら文化のことが問題になる。そこで、文化的に、同調化傾向を少しでも匂わせるものは、宮崎駿にせよ宮沢賢治にせよ、ファシストということになってしまうわけである。

こういう変な解釈に立っているから、佐藤は安部晋三政権に見られる権威主義的でかつ全体主義的な傾向、およびそれを心理面で支えている反知性的な傾向について甘い姿勢をとることになる。佐藤は、日本のヒトラーは来ないと言って、安部晋三政権がファッショ化する恐れはないと言っているが、それは彼が、ファシズムを文化の問題として捉え、政治の問題としてはほとんど捉えていないせいだ。

筆者が安部晋三に危険なものを感じるのは、その反知性主義と権威主義的な姿勢が政治的な抑圧と結びつくとき権力としてのファシズムが確立されてしまう恐れがあると思うからだ。佐藤は、ファシズムを権力との関係では捉えないので、安部晋三政権に非常に甘くなるのである。

そんなわけだから、わざわざ「反知性主義とファシズム」という題名を冠しながら、時の政権が露骨に見せている反知性的な傾向について寛大になり、それがはらむファシズムの芽を見失っているのだと思う。








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