このついで(一):堤中納言物語

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春の物とて詠めさせ給ふ晝つ方、臺盤所なる人々、「宰相中將こそ參り給ふなれ。例の御にほひ、いと著しるく」などいふ程に、ついゐ給ひて、「よべより殿に候ひし程に、やがて御使になむ。東の對の紅梅の下にうづませ給ひし薫物、今日の徒然に、試みさせ給ふとてなむ」 とて、えならぬ枝に、白銀の壺二つ附け給へり。 中納言の君の、御帳の内に參らせ給ひて、御火取あまたして、若き人に、やがて試みさせ給ひて、少しさし覗かせ給ひて、御帳の側の御座にかたはら臥させ給へり。紅梅の織物の御衣に、たゝなはりたる御髪の裾ばかり見えたるに、これかれそこはかとなき物語、忍びやかにして暫し居給ふ。

中將の君、「この御火取の序に、あはれと思ひて、人の語りし事こそ、思ひ出でられ侍れ」と宣へば、大人だつ宰相の君、 「何事にか侍らむ。徒然に思しめされて侍るに、申させ給へ。」 とそゝのかせば、 「さらば、つい給はむとすや」 とて、 

「ある君達に、忍びて通ふ人やありけむ、いと美しき兒さへ出で來にければ、あはれとは思ひ聞えながら、嚴しき片つ方やありけむ、絶間がちにてある程に、思ひも忘れず、いみじう慕ふがうつくしうて、時々はある所に渡しなどするをも、今、なども言はでありしを、程經て立ち寄りたりしかば、いと寂しげにて、珍しくや思ひけむ、かき撫でつゝ見居たりしを、え立ち留らぬ事ありて出づるを、ならひにければ、例のいたう慕ふがあはれに覺えて、暫時しばし立ちとまりて、さらば、いざよ、とて、掻き抱きて出でけるを、いと心苦しげに見送りて、前なる火取を手まさぐりにして、 
  子だにかくあくがれ出でば薫物のひとりやいとゞ思ひこがれむ 
と忍びやかに言ふを、屏風の後にて聞きて、いみじう哀れに覺えければ、兒を返して、その儘になむ居られにし、と」

如何ばかり哀れと思ふらむ、と、 おぼろげならじ、 と言ひしかど、誰とも言はで、いみじく笑ひ紛はしてこそ止みにしか。

(文の現代語訳)
降る雨を春のものとて眺めさせたまう昼の頃合、台盤所にいる女房たちが、「宰相の中將がお見えになったようです、あの方の立てられる匂いが、たいそう漂ってきますもの」などと言っているうちに、当の中将が現れて、女御の前にかしこまり、「夕べより父君の御殿におりましたが、そのままここへお遣いに参りました。女御様がかつて東の対の紅梅のもとにお埋めになった薫物を、今日の徒然に、お試しなされませとのことです」と言った。見事な枝に、白銀の壺が二つ結わえつけられていたのだった。そこで中納言の君が、それを御帳の内に持参し、香炉をたくさん用意して、若い人たちに、すぐさま試みさせたところ、女御はそれをちらりとご覧になって、御帳の側の御座に横になられた。女御の紅梅の織物の御衣に、豊かな髪の裾が覗き見えていた。中将はその間、これかれそこはかとない話を女房たちとし、忍びやかにその場に控えていたのであった。

中将の君という女房が、「このお香のついでに、ある人が哀れと思いながら語ったことが思いだされました」と言った。すると、年長の宰相の君という女房が、「何事ですか。女御様も退屈されていらっしゃるので、お話し申しあげなさい」と唆すので、中将の君は「それでは、わたしの後にはどなたかお話ください」と言って、次のような話をした。

「ある公達が、ひそかに通ってらっしゃるお方があられたようで、たいそう可愛い御子が生まれましたので、いとしいとは思いながらも、本妻が厳しかったのでしょう、訪ねるのも絶え間がちでした。でも子の方は父親を思いも忘れずにいて、たいそう慕うのが可愛くて、時々は自分の家につれて帰るのでしたが、母親は、すぐ返して下さいとも言いませんでした。長い中断を経てしばらくぶりに訪ねてみると、子は寂しげな様子で、父親を珍しげに思っているようです。父親はその子をかき撫でながら見ていたのですが、ゆっくり出来ぬ事情があって去ろうとしますと、子がいつもの通り父親を慕うさまが可哀そうに思えて、しばらく立ちどまったあと、それでは、と言って子を抱いて去ろうとするのを、母親はたいそう苦しげな様子で見送りました。そして、手前の香炉を手でまさぐりながら、
  子でさえもこのように父親を慕って去ってしまっては、私は香炉を一人で焚きながら思い漕がれるばかりです
としのびやかに言ったのでした。それを屏風の影で聞いた父親は、たいそう気の毒に思えたので、子を返して、そのまま一人立ち去ったのでした」

この話を聞いた女房たちは、「どんなに辛く思ったことでしょう」とか、「愛情も深まったことでしょう」などと言いあったが、中将の君は、これが誰のことだとも言わずに、ただ笑いに紛らわしてしまったのであった。

(解説と鑑賞)
身分の高い女性である女御のつれづれを慰めるために、近侍する女房たちが次々と物語をするという設定の話である。そのきっかけとなったのが宰相の中将で、彼は父親の邸から女御思い出の香の物を持参し、その香りを女御が嗅いでいる間に、近侍の女房たちを促して、物語をさせるということになっている。この宰相の中将と女御とは兄妹の関係で、兄の中将が父親の邸から女御ゆかりの香の物を持参したというわけである。題名にある「このついで」は、お火取り、すなわち香木を焚いているついでに、物語をするという趣旨である。

三人の女房たちが次々と物語をするが、その筆頭を勤めたのは中将の君である。これは女房の父親の官職が中将であったことからついた名前で、この場に出てくる宰相の中将とは関係がない。

中将の君の話の内容は、子までなしながら、夫との間で正常な夫婦関係を築けない女性の哀れな様子を物語るというものである。







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