内田樹「街場の現代思想」

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表題を読んで、これは現代思想の入門書みたいなものかと思ったのだったが、そうではなかった。この題名を冠した雑誌の連載をそのまま単行本に載せたというのだが、その連載と言うのが一種の人生相談みたいなもので、人間生きて行くうえでの悩みについての仮想の質問に、内田が答えるという体裁のものだった。現代思想を主題的に論じたものとは言えない。内田自身も看板と内容とがマッチしないと考えたのか、単行本に載せるにあたっては、「街場の常識」という看板に付け替えた。この本の後半部分が、それである。

人生相談への回答であるから、世の中の常識を語ることになるのは、ある意味避けられないことだ。人生に悩んでいる人を相手に、あまりに常識から逸脱したことをアドバイスしたら、その人の悩みを一層複雑なものにしてしまうだろうからだ。

常識といえども、なにぶんかの思想を含んでいるものだ。何らの思想も含まない見識と言うのは、常識と言うには値しない。臆見あるいは不見識というべきである。

内田は、現代人の常識にはいかほどかの現代思想が含まれているものだと考えているようである。だから相談者に答えを返す時には、現代思想の破片の中から、役に立つような「知的技法」を取り出して来て、それを意識的に利用するという方法を取っているようだ。

内田が気に入っている知的技法のひとつに、「話の原因結果を入れ替えて考える」、あるいは「現象の図と地を入れ替えて考える」という手があると言う。内田はこれをニーチェから学んだと言う。ニーチェは、「人間は重要なことについては、つねに原因と結果を取り違える」という具合に、人間の性向を説明するものとして、この考え方を持ち出したのであるが、内田はそれを、重要な問題について答えを求める時の、テクニックとして使っているのだと言う。答えに行き詰った時には、とりあえず「話を逆にしてみる」ことだと言うのである。

この順逆のテクニックを縦横無尽に操った名人として、内田は手塚治をあげている。手塚の名作「鉄腕アトム」の全作を貫くテーマは、「人間性とはなにか?」という問いである。なにが人間を人間たらしめているのか? 人間性を真に基礎づけているのは何か? この難しい問いに答えるために、手塚はなんと「人間ならざるもの」を主人公に据えた。人間ならざるものを通して人間であることの本質を限定づけようとしたわけである。その結果、「鉄腕アトム」のたどり着いた結論は、「人間を人間たらしめているのは、『世界のすべての人間よりも私は重い責任を負っている』という『有責感の(無根拠の)過剰』である」ということであった。これは現代思想の大家レヴィナスの「全体性と無限」とほとんどおなじことを言っていると内田は言う。

手塚は全く同じ技法を使って、「文明とは何か?」を考えるために文明と無縁なジャングルの生き物たちを主人公にし(ジャングル大帝)、「セックスとは何か?」を考えるために、性を失った人間を主人公にし(人間ども集まれ?)、「生きることの意味は?」という問いに答えるために、死ぬことを禁じられた人間たちを主人公にした(火の鳥)と内田は言う。

死ぬことを禁じられた人間は、結末のない推理小説が味気ないように、自分の人生が味気なく見える。何故なら、人生の意味というのは、死んで初めて定まると言われるように、始まりと終わりのあるあるひとつのまとまりでなければ、それがよかったとか悪かったとか、判断を下せないものだ。どんなことがらも、それが起きている最中には、どんな意味も付与できない混沌とした出来事に過ぎない。それが意味を持つのは、それが終った後に、終了後の視点から遡及的に意味付与することによって初めて成り立つ。

このメカニズムは、人間の自己認識についても言えることらしい。人間は、やみくもに現在を生きているだけでは、それがいいとか悪いとか、十分に評価できない。今の自分を十分に評価できるようになるのは、自分が死んだときのことを想像し、その未来の死後の視点から自分のいまを遡及的に意味付与する時だ。

この未来の視点からいまの自分の位置を遡及的に捉えなおす技法を、内田はジャック・ラカンの言葉「人間は前未来形で自分の過去を回想する」と関連付けている。簡単に言い換えれば、「未来の自分の視点にたって過去および現在の自分を捉える」ということだ。この未来の究極的なものが自分自身の死んだ時なのである。人間は、自分自身の死んだ時を想像し、その時の視点から自分の一生を遡及的に再構成する。だから決して死なない人間は、自分自身をどう捉えてよいか、それを考える支点を持たないということになる。

こんな具合で、この本は、現代思想を正面から取り上げているわけではないけれど、肝心なところで現代思想の破片を持ち出してくることによって、常識的なアドバイスに深い思想的な根拠を持たせようともしているわけだ。








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