西田幾多郎の神

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西田幾多郎は、日本人哲学者としてはめずらしいほど「神」というものにこだわった。西洋のキリスト教圏の哲学者が神にこだわるのは不思議ではないが、日本人であり、かつキリスト者でもない西田が何故神にこだわるのか。何しろ西田は、「善の研究」において「神」を持ち出して以来、終生神を問題とし続けた。彼の最後の論文となった「場所的論理と宗教的世界観」も、まさに神と人間との緊張あふれる関係について論じたものなのである。

「善の研究」を始めとして西田が神について論じたところを読むと、それがキリスト教的な神でないことはすぐにわかる。しかし、日本人にとって、キリスト教的な神とは違った別の神がありうるのか。

普通われわれ日本人が「神」という言葉を使う時には、「神様仏様」という具合に、仏と並列した形で使う。西田もまた、「父なる神、母なる仏」というような言い方をしている。こういう使い方における「神」とは、仏の仮の姿(これを権現さまという)、あるいは仏とほぼ同様なものとして表象されているのが普通である。こうした意味での「神」は歴史上、神仏習合の結果生まれて来たものだ。日本古来の神が、仏と集合して仏教的な神になった。それは神という名で言われるが、実体としては仏と別物ではない。

では仏と習合する前の、日本古来の神とはいかなるものであったか。それは一言で言えば、神話の神である。高天原と葦原の中国とを股にかけて闊歩する八百万の神々、それが日本の神の本来の姿である。これはだから、宗教的なものというよりは、神話の世界の住人たちなのである。神話と宗教との相違をこの場であげつらうつもりはないが、両者が基本的には違うということだけは押さえておきたい。

西田のいう神とは、キリスト教におけるような超越的存在でもなければ、日本古来の八百万の神のような、この世界にとって内在的な存在でもない。それは信仰の対象としての超越的な神ではなく、この世の生成を論理的に説明した神話上の原理でもない。神という言葉は使っていても、西田はそれに、彼独自のユニークな内容を持ち込んだ、と受け取れるのである。

西田が「神」という言葉で表している、そのユニークな内容とはいかなるものか。まず「善の研究」の中で西田が言っている神と言う言葉の中身について見てみよう。

西田は言う。「神とは決してこの実在の外に超越せる者ではない、実在の根底が直に神である、主観客観の区別を没し、精神と自然とを合一した者が神である」(西田「善の研究」)。また、「神とはこの宇宙の根本をいうのである。上に述べたように、余は神を宇宙の外に超越せる造物主とは見ずして、直にこの実在の根底と考えるのである。神と宇宙との関係は芸術家とその作品との如き関係ではなく、本体と現象との関係である」(同上)とも言っている。

西田が言っていることは、神とは宇宙に内在するものだということである。これは、神を宇宙の外に超越するものだとするキリスト教の考え方とは根本的に異なっている。神は、宇宙に、そして我々個人の内部に、内在しているとするのである。こうした考え方は、スピノザの汎神論やその影響を受けた理神論の主張と非常によく似ている。スピノザは、この世界の形成原理をキリスト者が考えるような超越的な神に求めるのではなく、世界そのものの内部に求めようとして、なおかつ、無神論との批判をかわすために、この原理に神と言う名を与えたわけだが、西田の場合には、もともと無神論との批判を気にする必要もないところを、したがって神の名を持ち出さなくても済むところを、わざわざ神を持ち出して来て、説明しているというようなところがある。

神を、宇宙に内在する原理(実在の根底)とする西田の見方は、その後基本的に変らなかった。叡知的世界や絶対矛盾的自己同一の議論を展開する場面においても、神が宇宙に内在する実在の根底だとする主張は揺るぐことはなかった。だが、そんなものにわざわざ神という名をつける必要があるのか、といった批判を気にした西田は、神のもつ超越性にも気を配らなければならなくなった。それ故、晩年の西田の神についての議論は、内在と超越とをいかにして調和させるか、と言う点に集中していったわけである。

内在と超越とは、普通に考えれば、排斥しあう関係にある対概念だ。ある事柄の内部にあるのが内在、その外部にあるのが超越、と考えるのが筋だろう。キリスト教では、神は宇宙の外部にあって、この宇宙を創造した造物主である。そうしたものとして、神はいまでも宇宙の外に超越して存在すると考えられている。しかたがって、そういう神と人間との関係は、宇宙や人間の外部に存在する者との間の超越的な関係である。神は宇宙を超越しているがゆえに、それとの関係は宇宙に内在する原理では説明がつかない。まして、信仰の根拠とはならない。人が神を信仰するためには、パスカルがいうような飛躍が必要である。人間は飛躍することによって、神との距離を一瞬にして縮め、信仰に入ることができるのである。

宗教というものは、キリスト教に限らず、こうした超越の要素を含んでいるものだ。しかし、西田の神は、この世界の外に超越していてはならなかった。だが、この世界に内在しながら、超越的な要素を持つということはあり得るのか。

この問いに対して、晩年の西田は、ありうると考えた。内在と超越とは一見矛盾した関係にあるが、どこかでつながってもいる。それを西田は内在的超越という言葉で表す。この言葉は、内面的外面というようにも聞こえ、従ってペテンのようにも聞こえるが、言っている当人の西田は大真面目である。内在的超越が成り立つのは、絶対矛盾的自己同一というものの働きによる、というのがその主な理屈である。







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