廣松渉の西田幾多郎批判

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廣松渉は、哲学者としての西田幾多郎については、全くといってよいほど言及していない。認識と存在とを貫く四肢的契機を重視する廣松にとって、主客未分の純粋経験から出発する西田の議論は、あまりにも粗雑に映ったからだろう。廣松が西田に言及するのは、国家論の文脈においてである。廣松は、「『近代の超克』論」の中で、いわゆる京都学派の国家観を手厳しく批判したのであったが、彼らの国家観を西田もまた共有していたのではないか、という問題意識から西田を取り上げるわけなのである。

「近代の超克」というのは、日米開戦直後に行われたある座談会のテーマを指す言葉だ。この座談会には、当時の日本文化を代表する一流人士なる者が多数参加し、(太平洋戦争初戦における)英米に対する日本の勝利について、その文明史的な意義を丁々発止したものだった。彼らが一様にたどり着いた見解とは、日本がアメリカに勝ったということは、西洋の文化が唯一のものではないことの証拠となった、その西洋の文化とは近代そのものにほかならない、それを我々日本が粉砕したわけであるから、我々には近代の超克を論じる資格がある。まあ、そう言った内容の他愛ない議論だった。その議論の中身は、ほとんどが感情的にのぼせ上っただけの空虚な言葉遊びだったわけだが、ひとり京都学派の学者たちのみは、それに理屈の綾をつけた。その理屈の綾をよくよく腑分けしてみると、西田幾多郎の考え方に近いのではないか、そう廣松はいうのである。

西田幾多郎といえば、峻厳な思想家であり、政治とはかかわりが薄いという風に思われがちだが、実際はそうではなかった、と廣松は言う。西田の哲学は「単にアカデミックではなく同時にジャーナリスティック」であり、いわゆる「歴史的現実」に対して「一種独特のやり方でアンガージェする姿勢を持っていた」というのである。

日本の「歴史的現実」に対する西田のアンガージェは、二つの面で認められる、と廣松は考えたようだ。そのひとつは天皇制への姿勢である。天皇制は、近代の超克論のキーワードであるばかりでなく、当時の日本の思想状況を覆い尽くすような巨大なテーマであったわけだが、それに対して西田は、彼一流の立場から評価付けを行っている。

すなわち西田は、矛盾的自己同一としての皇室を日本文化の中心に据えることに賛成して、次のように言う。「何千年来皇室を中心として生成発展し来った我国文化の迹を見るに、それは全体的一と個体的多との矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへと何処までも作ると言うにあったのではなかろうか。全体的一として歴史において主体的なものは色々に変った・・・しかし皇室はこれらの主体的なものを超越して、全体的一と個物的多との矛盾的自己同一として自己自身を限定する世界の位置にあったと思う」(西田「日本文化の問題」)

西田一流のジャーゴンが散りばめられていて、初心者には意味が通じないところもあるだろうけれど、ここで言われていることは、要するに、日本と言う国は皇室が中心となって発展してきたのであるし、今後もまたそうあるべきだということである。

「歴史的現実」に対する西田の姿勢のもう一つのものは、日本文化の優越性についての確信である。この点を踏まえて西田は、「現在の日本は世界の日本として世界に示すべきものを有たねばならない」(西田「知識の客観性」)と言う。そしてそれは西洋とは異なった東洋的なものでなければならないと言う。日本は、東洋的なものの代表選手として、西洋的なものとは異なった理念を積極的に打ち出し、以て世界をリードしていかねばならない、というわけである。この議論が、西田の弟子たちのいう「近代の超克」とつながっているだろうことは、容易に見て取れるところだ。

ともあれ以上を踏まえて廣松は、「昭和十年代における三木清をも含めて、西田門下の哲学者たちが説いた"近代の超克"論、さかのぼってそれを支えた彼らの歴史哲学や社会・国家観の太宗は、まさしく御大西田幾多郎その人の思想のうちに既在していたのである」と言うのである。

西田の国家観は、最後の論文「場所の論理と宗教的世界観」の中で、繰り返し触れられている。「国家とは、それぞれに自己自身の中に絶対者の自己表現を含んだ一つの世界である。故に私は民族的社会が自己自身において世界の自己表現を宿す時、即ち理性的となる時国家となるというのである。此の如きもののみが国家である。かかる意味において国家は宗教的である」。こう西田は言って、国家と宗教とを同じレベルで捉えている。国家は民族を同じくする人々の単なる集まりではない、それは絶対者の自己表現として、信仰の対象ともなりうるものだ。かかればこそ国民は、国家のために喜んで命を捧げることができるのであるし、大日本帝国の戦争遂行の面でも都合がよいわけである。

こうはいっても、西田は同時代の日本の戦争に対して、手放しで支持していたわけではない。真珠湾攻撃の勝利に対しても、西田は弟子たちのように浮かれることはなかったし、むしろ冷めた目で見ていた。また戦況が悪化するようになると、その行方に心を痛めもした。特に日本の戦争指導者たちの無責任ぶりには、怒りの感情さえ抱いたことが、戦時中の日記から明らかである。こういう点は、西田の名誉のために言っておくべきだろう。







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