片山杜秀「未完のファシズム」

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20世紀の二つの大戦の谷間の時期に、日独伊三国で典型的な形で成立した全体主義体制を「ファシズム」と呼ぶことが、日本の近代史学界の趨勢となってきた。日本の全体主義は、厳密な意味ではファシズムと言えるかどうか疑問があり、筆者などは軍国主義と言うべきだと考えているが、この本の著者片山杜秀は、ファシズムと呼んでいいと言っている。しかしそれは、イタリアのファシズムやドイツのナチズム(ファシズムのドイツ版)と比較して不徹底なところがあった。それ故「未完のファシズム」と呼ぶべきだというのが、片山の立場のようだ。本の題名は、その立場を端的にあらわしたものと言える。

日本の全体主義の最大の特徴は、運動の担い手が軍人たちだったということだ。その点は、イタリアやドイツで、民間の政治勢力が明確な政治思想を掲げて権力を奪取していったのとはだいぶ違う。軍人と言えば権力の一角にいるわけで、その連中が自分の権力を振り回すような形で全体主義=ファシズムが成立していったと見てよい。そうした見方は片山もしているのだが、ただ片山の場合には、軍部が権力を握って軍事独裁体制を確立したという定説に意義を唱える。軍部は、イタリアのファシズムやドイツのナチスのように、一元的な権力を確立できたわけではない。もし一元的な権力を確立できていたら、たとえば東條英機が失脚するというようなことは起きなかっただろう。東條もまた、ムッソリーニやヒトラーのような本物の独裁者になったはずだ。東條自身もそう望んでいたわけだから。ところがそうならなかったのは、日本の権力システムに独自の分散的な傾向があって、その傾向が権力の集中を妨げた、だから日本の全体主義運動は「未完のファシズム」に終わったのだ、と片山は分析するのである。

旧憲法下の日本の権力システムというのは、天皇を中心にしてかなり統合度の高いシステムのように見える。たしかに天皇は権力の中心=淵源として、独裁的な権力を発揮できるようになっていた。立法機関や内閣、軍部などは、それぞれ対等の形で天皇につながっており、天皇の名において自分たちの正統性を主張できる立場にあった。つまり旧憲法下の日本の権力システムは、一方で天皇を中心にした強い統合性を持っていると同時に、立法以下の権力の下部システムは、互いにけん制しあうという点で、かなり分散的な性質を持っていたわけである。そういうシステムにあっては、天皇自身が強いリーダーシップを発揮するか、あるいは第三の者が天皇の名をかたって統合を進めていくか、いづれかによるのでなければ、権力の運営がうまく進まない。明治天皇以降、日本の歴代天皇は自ら権力を行使せず、臣下を通じて統治するという建前を取ってきた。その臣下の筆頭の立場にあったのが、薩長閥出身の元老たちであったわけで、この連中が生きている間は、旧憲法体制はまがりなりにも機能した。ところがその連中が死んでしまうと、天皇の名による統治がうまく機能しなくなった。日本の軍国主義は、このような権力の機能不全を背景に生まれてきたのだ、というのが片山の基本認識のようである。

この本で片山がとりあげるのは、小畑敏四郎、石原莞爾、中柴末純といった軍人たちである。彼らはそれぞれ軍人の立場から日本の国運を論じる。最大のテーマは、いつかは避けられない戦争をどう戦うかという軍人らしいものである。テーマは軍人としてふさわしいのだが、それが単なる軍事に関する議論にとどまらず、国の運命や国民の命を左右するような議論へと発展してゆく。何故なら近代戦争というものは、物量の戦争なのであり、国を挙げての総力戦にならざるを得ないという認識があるからだ。

このような認識をもとに、彼らは彼らなりに日本の進むべき道を模索する。小畑は、敵を短期間で完膚なきまでに殲滅し、それを通じて早期の講和に持ち込むことで、持たざる国日本にも勝機があるという議論(殲滅戦思想)をする。石原は、日本は持たざる国なのだから、持てる国になるまで戦争を避けたほうがよい、持てる国になった暁には宿敵アメリカと正面から戦うのだと言う(世界最終戦思想)。中柴は、日本が持たざる国だから持てる国になるまで戦争を控えようと言うのは愚論だ、持たざる国である日本には、他の国にはないものがある、国民の旺盛な戦闘的精神力だ。この精神力を以てすれば、物質的なハンデなどは乗り越えることができる。日本男児にもヤマトナデシコにも「うちてしやまん」の精神あるのみと主張する(日本的総力戦思想)。ことここにいたっては、国民の命は軍事ゲームの駒にすぎなくなり、国の運命は軍人の悲憤慷慨に託されることになる。このなんとも独特の神がかった精神主義が、これら軍人たちの思想を強く彩っていると言うわけである。

このように現役の軍人の思想にスポットをあてて日本ファシズムの特徴を深く分析した研究は、ほかにないのではないか。片山は「日本の右翼思想」で、日本の右翼の思想的源流をたどる試みをしていたが、いまひとつ焦点が曖昧だった。それに比べれば、この本はかなり明確な問題意識の上に立っており、焦点もはっきりしている。日本の軍国主義運動は、上記の軍人思想家たちの動きで説明しきれるものではないと思うが、それを分析するためのかなり有効な視点であるとは言える。

いまの安部政権下で、日本は再び軍事国家への道を歩もうとする動きが出てきた。今の日本は、権力の統合がかなり進んでいるので、ポピュリズムが全体主義へと発展するポテンシャルは十分あると思う。そうした時代だからこそ、片山のこの本は、タイムリーな試みとしての意義を持っていると言えよう。







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