原爆投下から70年

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今年(2015年)は、広島・長崎に原爆が投下されてから70年目の節目の年だ。今日8月6日には、例年のとおり広島で平和記念式典が催された。その場で、印象的なことが二つ起った。一つは安倍晋三総理大臣が、この式典に出席した歴代の総理大臣としては初めて、非核三原則に触れなかったこと。もう一つは、アメリカの政府高官が初めて参加したことだ。安倍総理大臣については、彼の日頃の言動からして想定の範囲内であり、そう驚く人はいなかったと思う。一方、アメリカ政府を代表して始めて参加したゴットメラー国務次官については、終始硬い表情で、何らのコメントもなく、式典終了後静かに立ち去ったということだ。

アメリカの政府高官がこれまでこの式典に参加してこなかったのは、自国の原爆投下の正当性が、それによって揺らぐことを恐れたからだ。アメリカはいまでも、広島・長崎への原爆投下は、正当だったと主張している。これによって戦争が早期に終了し、アメリカの多くの青年たちの命を救った、という理屈だ。この理屈はいまでも用いられており、この理屈に基づいて、アメリカ政府は広島・長崎への原爆投下をいまでも正当化しているというわけだ。それが今年になって、広島の平和祈念式典に初めて政府高官を派遣したのには、色々な事情があると思うが、これによって原爆投下について、それをやるべきでなかったと言ったり、ましてやそれについて謝罪したりということは、毛頭考えていないようだ。

原爆投下を正当化するアメリカ政府の理屈は、功利主義に基づいたものだ。大きな損失を避けるためには、小さな損失は認められるべきだ、というのがその主張の核心だ。広島・長崎の場合には、広島・長崎の人々の被った苦しみより、原爆投下によって戦争が早期に終了し、それによって避けられた損失の方がずっと大きいのだから、全体として秤量すれば、合理的な選択だったということになる。

こうした功利主義の理屈は、説得力があるようで、そうではない。それは経済合理性には一致する考えかも知れないが、道徳的な観念とは両立しない。そのことを、説得的に説明した人としてサンデル教授が上げられる。サンデル教授は、次のような例を出して、功利主義がいかに道徳と相反しているかについて説明している。

ここに四人の人間がボートで漂流し、食料も水も尽き果てた状態で、全員に死ぬ運命が近づいている。こうした場合には、四人の中で一人が犠牲になって、他の三人の食欲を満足させ、その結果彼らが生き残ることにつながれば、食われた一人の死は無駄死にはならない。彼は自分の命と引き換えに他の三人の命を救ったのであり、他の三人は、彼の命と引き換えに生き延びることができた。全体として見れば、食われた一人の苦しみより、生き残った三人の効用の方がずっと大きいのだから、このようなケースで、一人を犠牲にして他の三人が生き延びることには、十分な合理性がある。

こう考えるのが功利主義的な考え方だ、と言った上でサンデル教授は、この考えが、道徳と相容れないことを強く主張するのである。いかなる動機によっても、人を殺すことは、道徳的に許されない。これが人間の普遍的な前提であって、これを踏み外すことは、人間の道を踏み外すことだ、とサンデル教授は結論付ける。

このサンデル教授による批判と全く同じようなことが、広島・長崎の原爆投下においても言える。アメリカ政府は、それによって大勢のアメリカ人の命が救われたのだから、なんら恥じるところはない。広島・長崎で原爆を落とされた人々については、気の毒だとは思うが、それは、原爆投下によってもたらされた効用に比べれば、受忍の範囲内のことだというわけである。しかし、そうした受忍の強要は、道徳的な見地からは到底正当化できない。どんな動機によるにせよ、人殺しは人殺しであり、ましてや戦闘とは無縁な一般市民を標的にして原爆を落としたのであるから、それはホロコーストというべきである。

そんな残虐な行為を、人間には簡単にできるということが、筆者のような者には衝撃的に映る。虫や禽獣を殺すのでも、ある程度の良心の呵責を誰しも感じるものだ。ましてや、殺す相手が人間の場合には、普通の人間であったなら、強烈な嫌悪と罪責を感じるはずだ。ところが、広島・長崎に原爆を落とした人々は、そのことに何ら嫌悪を感じないばかりか、自分のしたことに誇りの感情を持ってもいるようである。

これは、自分の殺した人間が、自分と同じ人間ではなく、どこか地球外の惑星かなにかに住んでいる醜悪な生物だと考えない限り、出来ないことではないか。

広島での平和記念式典の状況をニュースで読みながら、ふとこんな取り留めのないことを思い付いた次第だ。





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