伽耶子のために:小栗康平

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小栗康平の第二作「伽耶子のために」は。在日コリアンの生活をテーマにした作品だ。どういう理由か詳しくはわからぬが、一般の映画館で上映されることはなく、東京の岩波ホールと大阪の三越劇場でひっそりと上映されたのであったが、右翼のいやがらせにあって、短期間で終了、その後劇場やテレビで取り上げられることもなかった。仏独伊各国の映画祭で受賞するなど、海外では高い評価を受けたことを考えると、内外の激しい落差を感じさせられる。

この映画が公開されたのは1984年のこと。日本経済は絶頂期にあり、多くの日本人は豊かな現状に満足していたから、排外的なナショナリズムが高まっていたわけではない。そんな雰囲気の中でなぜ、この映画が右翼の目の仇にされ、それに当時の日本人がやすやすと同調したのか、よくわからないところがある。この映画は、露骨な反日的主張が溢れているわけでもなく、在日コリアン二世の青年と、日本人でありながら在日コリアンの父に育てられた少女との淡い恋を縦軸にして、それに在日コリアンの苦渋に満ちた生活ぶりを横軸として絡ませて、在日コリアンの民族的なアイデンティティのようなものを取り上げている。どんな民族にも民族としてのアイデンティティはあるわけだから、それを映画の中で取り上げていることを理由に、嫌がらせや攻撃をすることは偏狭な態度と言うべきだろう。

小栗がなぜ在日コリアン問題に深い関心を抱いたのか、その事情はよくわからないが、この映画の原作を読んで強い問題意識をもったのが直接的な動機だったらしい。小栗はこの原作の映画化のために、かなりな時間をかけて準備している。デビュー作の「泥の河」で描いたような、戦後日本の絶対的な貧困に通じるものを、在日コリアン社会の中に、更に凝縮された形で見出し、強い関心を抱いたということかもしれない。

映画の舞台は、1957年から翌年にかけての北海道と東京の在日コリアン社会だ。主人公のイム・サンジュニ(呉昇一)は北海道に暮す在日コリアンの息子で、早稲田の学生ということになっている。その彼が、北海道の大沼近くに住んでいるコリアンの家を訪ねるところから映画は始まる。

そのコリアンの家族とサンジュニの家族は戦前樺太で知り合いだった。その縁でここを訪ねに来たサンジュニは、そこで一人の少女と出会う。その少女伽耶子(南果歩)は樺太で日本人の子として生れたのだったが、日本へ逃れてくる途中親から捨てられ、朝鮮人の男に拾われたのだった。この二人が次第に愛を深め合ってゆくというのが、この映画を貫く経糸となっているわけだ。

伽耶子は在日コリアンの親から溺愛されているが、それが重荷に感じられて、家出をしてしまう。彼女の家出を知ったサンジュニは、心当たりを探し回った挙句、彼女の行方を探り当てる。彼女は自分を捨てた実の母親を頼っていたのだった。しかし、そこにも彼女の居場所はなかった。そこで、サンジュニは彼女を東京の自分の下宿に連れ帰り、二人で共同生活を始める。

二人の愛が絶頂を迎える頃、北海道から伽耶子の養父母が訪ねてくる。彼らにとっては、伽耶子はかけがいのない存在であるとともに、また今後頼りにすべき存在でもあったのだ。そんな娘を、自分たちの手の届かないところへ奪い去られるのは耐え難い。こんな親としてのエゴイズムが、彼らを駆り立てて連れ戻しに来させたというわけだ。せめて大学を卒業するまで娘を自分のもとにとどめさせて欲しいと養父に懇願されたサンジュニは、それをどうすることもできない。伽耶子は養父母とともにサンジュニから去って行き、二人はその後再会することはないのだ。

こんな具合で、恋愛映画としてはささやかな筋立てなのだが、これを縦糸として、そこに横糸として絡んでくる在日コリアン社会の状況がかなりな迫力を以て迫ってくる。まず、サンジュニの家族。父親は戦前日本に渡ってきた在日一世。彼は朝鮮人としての民族的なアイデンティティにいまだに忠実で、そんな彼の眼には、息子たちが堕落して見える。息子たちのほうは、民族的なアイデンティティよりも、貧しい暮らしから抜け出すことの方が重要なのだ。

サンジュニの周りにいる在日コリアンたちも、伽耶子の家族も含めてみな貧しい暮らしをしている。伽耶子が、日本人の友人の家庭を訪ねた折のことを、サンジュニに語って聞かせる場面があるが、そこで伽耶子は、日本人と朝鮮人との絶対的な差と超えられない溝のようなものについて語る。日本社会の中では、在日コリアンは一人前の人間として自立することはできないのだというあきらめのような気持が、ほかならぬ日本人でありながら朝鮮人に育てられた少女の口から語られるわけだ。

こんなわけで、映画の中では、在日コリアンたちの悲惨な境遇が、執拗なほどに映し出される。その悲惨さは、「泥の河」における底辺の日本人の悲惨さとも通じるところがあるわけだが、在日コリアンの場合には、物質的な悲惨が精神的な悲惨と絡みあっているところが、それだけ悲惨さの度合いが深いのだと思わせる。

在日コリアンたちの民族的なアイデンティティを垣間見せる場面もいつくかある。ひとつは、在日コリアンたちが、河原で繰り広げる集団的な踊り。民族衣装をまとった女たちが、声を震わせ歌いながら民族の歌を歌う。彼女らの声は、腹の底から湧き上って来る怨念のように聞こえる。

怨念と言えば、在日コリアンが日本を呪う場面も出てくる。1945年、戦争の終わった直後に、一人の朝鮮人の老婆が日本を呪いながら次のように歌うのだ。

  故郷を捨てて盗人の住む国へ 
  来ただけでも悲しいのに
  樺太くんだりで何故死ぬのか
  国を奪われ 娘まで死んだ

最後に、映像の印象について。この映画はとてつもなくテンポがゆるい。テンポが緩いだけではなく、言葉も少ない。主人公のサンジュニは、いつも黙って周囲を見つめている。伽耶子と一緒にいるときでさえ、感情をあらわにすることがない。ただ黙々と彼女を抱くだけだ。彼女の方も、時にはおしゃべりになるが、寡黙なことの方が多い。この映画の中の人々が饒舌に語り出す時は、それは怒りや恨みの感情を言葉に込めて爆発させる時なのだ。

なお、伽耶子の言葉遣いには、語尾に「・・・なんだから」という言葉がつく。これは、相手に向って同意を求めているように聞こえたが、いまどきの若い人はこんな言い方はしない。こんなところに、言葉をめぐる時間の流れのようなものを感じさせられる。








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