喜多川歌麿の美人画

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徳川時代における浮世絵版画は、17世紀後半に菱川師宣らによってジャンルとして確立され、18世紀の後半に鈴木春信による錦絵への発展を経て、18世紀の末近く、寛政年間に喜多川歌麿が登場するに至って、完成の域に達したと言われる。寛政年間には、写楽や豊国といった奇才も出現し、19世紀になると北斎や広重が風景版画の分野を開拓することで、浮世絵版画はいっそうの広がりを呈した。

歌麿は、狩野派の絵師鳥山石燕に師事して、木燕、燕岱斎、北川豊章などと称していたが、天明の後半には喜多川歌麿と称して美人画を描くようになった。当初の彼の美人画は、鈴木春信以来の伝統にしたがって、全身像であったが、そのうちに上半身の美人画を描くようになり、寛政時代に入ると、大首絵とよばれる半身美人画を大成するようになる。この大首絵の手法は、写楽や豊国によっても取り入れられ、浮世絵版画の一つの流行を形作るようになる。

歌麿は狂歌仲間との付き合いもあり、狂歌に絵を添えるような仕事もしたが、自分自身は、多くの狂歌師のような社会に対する批判精神は持たなかったと言われている。ただひたすら女の美しさを描き続けたわけである。

しかし、徳川幕府は、女の錦絵を快く思わなかった。女を描いて売ることを、理屈をつけてたびたび禁止したので、歌麿のほうもそのたびに、趣向をかえて女を描いた。大首が卑猥だと言われれば、顔の割合を小さくしたり、それでも卑猥さが抜けきらぬと言われれば、女の全身像を描いた。

そんな歌麿であったが、ついに幕府のお咎めを免れることはできなかった。文化元年(1804)数え年51歳のときに、手鎖50日の刑に処せられたのである。もっともその理由は、女を描いたことではなかった。豊臣秀吉の醍醐の花見を題材にした浮世絵「太閤五妻洛東遊観之図」が幕府の禁令に触れたのである。秀吉を絵の題材にすることがなぜ幕府の禁令に触れたのか、その詳しい理由はわからないが、どうも秀吉の放蕩振りを描くことが、当時の将軍家斉の放蕩振りへの当てこすりと曲解されたようである。

この下獄は歌麿にはこたえたようだ。入牢そのものよりも、牢名主らによるハラスメントがこたえたようだ。とくに、歌麿の色好きにことよせて、性的なハラスメントが執拗に繰り返されたらしい。たとえば無理やり男色を迫られるとか、男根をもてあそばれるといったことである。

解放された歌麿には、大きな名声に支えられて多くの仕事が待っていたが、歌麿にはもはや創造への意欲は残っていなかった。悶々とした日々を送るうちに、翌々年(文化3年)の秋に数え年53歳の若さで死んでしまったのであった。

美人画家としての歌麿の活躍は、ほぼ寛政年間に集中している。このサイトでは、寛政年間を中心にした歌麿の画業を紹介したい。





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