日本国憲法生誕の法理:宮沢俊義の八月革命説

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戦後の憲法学界をリードした宮沢俊義に「日本国憲法生誕の法理」と題した小論がある。日本国憲法の法的な正統性が何に由来するかを論じたものである。この論文が最終的な体裁をとったのは1955年のことだが、それ以前に、1946年3月に出された政府の憲法改正案を論じる「八月革命の憲法史的意味」というものがあり、それを踏まえたかたちで、日本国憲法の法的な正統性の由来というか淵源について論じなおしたものである。

日本国憲法の法的な正統性の根拠を宮沢は、ある種の革命に求める。宮沢によれば、日本がポツダム宣言を最終的に受諾した時点で、明治憲法下の天皇主権の建前が崩壊し、国民主権の選択がなされた。それは明治憲法の体制を根本から覆す選択であったという点で革命と言ってもよい。日本国憲法の制定は、この革命権力が自らの正統性を改めて宣言するために行った行為であって、日本国憲法の理念は、憲法制定以前にすでに確立されていた、と宮沢は考えた。この革命は、ポツダム宣言の受諾に伴って生じた事態なので、宮沢はそれを八月革命と呼び、日本国憲法をその革命の総決算と位置づけるわけである。

日本国憲法を革命の成果だと考える理由を宮沢は、明治憲法と日本国憲法との断絶に求める。日本国憲法は、法的な形式においては、明治憲法第73条の定める改憲手続きに従っているが、実質的には明治憲法の改正ではなく、全く新しい憲法の制定というべきである。何故なら、それは明治憲法の基本的な枠組みである天皇主権を廃しているからだ。天皇主権の廃棄は明治憲法を全面的に否定することを意味する。明治憲法は、自己を全面的に否定するような意味合いの変更を認めているとは到底言えない。それ故明治憲法の改正ではなく、明治憲法の廃棄というべきなのである。このような理屈で宮沢は、日本国憲法は、明治憲法を廃棄したうえで作られた、まったく新しい憲法だと言うのである。そしてこの全く新しい憲法を制定したのは、革命を遂行した権力だったと言うわけである。

宮沢がそう考えたのは、新しい憲法の制定には当然その主体がいなければならない、という理屈もあるが、もうひとつ、敗戦前後の政治情勢についての宮沢なりの認識もあずかっていたようだ。日本政府は、ポツダム宣言を突きつけられたときに、受諾の前提として、天皇主権が害されないと受け取ってよいかどうか確認したが、それに対して連合国側は、「日本の最終の政治形体は、ポツダム宣言の言うところに従い、日本国民の自由に表明される意思によって定められるべきである」と回答した。日本政府はこの回答を踏まえて降伏したのであるが、それはその時点で天皇主権を廃棄し国民主権を受け入れたということを意味する。それは、明治憲法体制そのものの廃棄を内容とする決断だったのであるから、革命と言うべきだと宮沢は判断するわけである。

このように宮沢の論旨は、日本国憲法は明治憲法の全面的な廃棄の上に全く新しく作られたのであり、明治憲法とは断絶している、というのが一点、その全く新しい憲法は、革命の結果生じた新しい憲法制定権力によって作られた、というのがもう一点である。要するに、1945年8月に日本で革命が起こり、その革命の結果明治憲法が廃棄されて日本国憲法が制定された、と見るわけである。

こうした宮沢の立論は、今日から見ると無理なところが多い。まず、宮沢の言う革命が、歴史上のもろもろの革命とあまりにも異なっている。革命というのは、権力のドラスティックな交代を伴うものだが、1945年8月の日本においては、そのような交代を伴う革命が行われたと言うのは無理筋だろう。政府の構成員はそのまま変わらなかったわけだし、天皇主権の体現者である天皇みずからも、日本国憲法下においても生き続けた。

宮沢もそんなことは百も承知だったにちがいない。にも関わらずこんな立論をしたのは、当時の憲法学会の主流が、明治憲法と日本国憲法の断絶を認めず、日本国憲法を明治憲法との連続性において、その改正という位置づけで考えていたことへの反発が働いたのだろうと思われる。日本国憲法を明治憲法との連続性において位置づけるとどんな不都合が生じるのか、宮沢は説明していないが、革命という無理筋の擬制をしてまでも断絶にこだわったのには、それなりの理由があったに違いない。それはおそらく、憲法というものにはかならず憲法制定権力が伴うという理解と、体制の全面的な変化を伴う憲法の変更は革命による権力の交代を想定しないでは合理的に説明できないという認識があったからだと思われる。

ところでいまの日本の安部晋三政権は、憲法改正の最大の理由として、それがアメリカによって押し付けられたものだというキャンペーンを張っている。押し付け憲法ではなく自主憲法を、というのが彼らの言い分だ。ということは、彼らは日本国憲法の正統性そのものに意義を唱えているわけである。宮沢が上記の論旨を展開した当時は、そうした議論は、あるいはあったのかもしれないが、宮沢が取り上げるに値すると考えるほど重要な動きではなかったようだ。日本国憲法の正統性に意義を唱えるような動きは強くはなかったのであり、論調の違いは、その正統性をどこに求めるかにあった。保守的な学者たちは、それを明治憲法との連続性のうちに基礎付け、宮沢の場合には革命を擬制したわけだ。

今の時点から事実を整理すれば、明治憲法の廃棄は敗戦の直接的な結果として起こったものである。それは戦勝国による敗戦国日本の武装解除の核心的な処置として行われた。日本国憲法の制定は、その仕上げというべきものである。日本の国内で革命が起きたわけではない。革命が起きたわけではないが、革命に類似するような事態がおこったのであり、それを遂行したのは日本人自身でであった。そう言うほかないのではないか。何故なら、押し付けられたからといっても、それを踏まえて日本国憲法制定の手続きをとったのは、日本人自身なのであるから。





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