真空地帯:山本薩夫

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山本薩夫の映画「真空地帯」は、野間宏の同名の小説を映画化したものである。この小説は1952年に発表され、非常に大きな反響を巻き起こしたのだが、それを山本は同じ年の暮れに映画化した。そのことで、ここで描かれているような旧陸軍のあり方についての、社会的な関心をいっそう掻き立てたといった具合になった。

1952年といえば、戦後いくらも経っていない時だし、サンフランシスコ条約で日本が主権を回復した直後ということもあり、戦争の記憶は人々の心に鮮明に残っていた。その記憶のうち、軍隊経験者たちの負の記憶が、この作品によってよみがえり、人々の反戦気分を改めて掻き立てた。というのもこの作品は、軍隊というものの非合理的で醜悪な側面を容赦なく暴き立てたものだったからだ。

そんなわけで、この映画は反戦映画と言ってもよいが、戦争をテーマにした映画であるにかかわらず、戦争の場面は出てこない。描かれているのは戦争の悲惨さとか野蛮さとかいったものではなく、兵士たちの日常生活の場としての内務班のあり方なのである。

内務班というのは、兵営の中の、兵士たちの起居する空間のことだが、そこは軍隊生活の不可欠の要素として、軍隊の規律が厳しく貫徹する場である。その場における、兵士たちの生活には、自由の要素はほとんど認められない。兵営は、一人ひとりの兵士たちを、まともな戦闘要員に鍛え上げる場であるから、すべてが戦争目的に向かって一元的に管理されている。つまり、究極の管理社会であるわけだ。そうした究極の管理社会が、人間性をどのようにゆがめるか、ということをこの作品の、原作も映画も追及していると言える。

野間宏の原作を筆者が読んだのはだいぶ昔のことで、詳しい筋書は忘れてしまったが、大方の印象は残っている。内務班における暴力とか不条理とかの横行と、それに対して主人公が戦うというようなイメージだ。このたび、映画を見て、そういうイメージが裏付けられた。実際この映画は、原作をほぼそのまま再現していると言われている。

映画は、陸軍刑務所から原隊復帰した木谷一等兵(木村功)の目を通じて、内務班の不条理なあり方を描くという手法をとっている。古参兵による新兵への日常的な暴力は、兵隊としての序列がそのまま人間の価値の相違につながるという日本的な序列意識がそのまま発現したものとして、この映画の中ではもっとも力を入れて描かれている部分だ。

内務班というのは、兵士たちの日常生活の場であるから、同じく権威的な関係といっても、戦場とは自づから違った力学が支配する。将校同士の権力争いやら公物を横流しして私利をむさぼる輩の横行とか、人事権を持っている者や予算の配分権を持っている者が伸さばっていることとか、軍隊にも娑婆と同じ腐敗が蔓延しているといったことが延々と紹介される。

こうした指摘は、それまではほとんどなされていなかったわけで、これを暴き出したことが、野間の原作が社会的に大いに注目された原因にもなったわけだ。映画の場合には、そうした不条理がきわめてわかりやすく表現されているために、それを見た観客たちは、軍隊生活はあらゆる意味でもう沢山だ、というような気持ちになったわけである。

この作品の特に興味深いところは、内務班の規律がかなり弛んでいるように描かれていることだ。主人公の木谷一等兵は、序列の上では下のほうであるにかかわらず、内務班の中では大きな態度を示し、それを他の古参兵たちが、内心面白くなく思いながら許している。そればかりか、木谷を挑発して却って彼を逆ギレさせてしまい、その結果一方的に暴力を振るわれる始末だ。これは下級の兵士が上官に暴力を振るうことであるから重大な規律違反であるのに、木谷には何のお咎めもない。

また、兵営の隊長は名目の存在に過ぎず、実験は准尉が握っている。准尉というのは、人事や予算の権限を持っていることから、兵営の実質的な実力者なのだが、この映画の中の准尉(三島雅夫)は、形の上でも自分は最大の実力者なのだと振る舞い、それを上官である隊長が咎められないでいる。上がこうであるから、下々まで規律が弛緩するのは当たりまえだ、と映画は言っているようなのである。

兵営というのは、兵士たちを訓練して戦線に送り出すのが役目なわけで、兵士たちは遅かれ早かれ戦線に送りこまれる運命なのだが、この映画に出てくる兵士たちは一人残らずそれを恐れている。というのも、彼らは日本が敗色濃厚であり、戦線に送られることは、ほとんど死にに行くことと同じように受け止めているからだ。この映画の時代背景は1944年ということになっており、その時点での日本軍は、敗北に敗北を重ねていたわけだから、戦線へ行くのが死にに行くことを意味するといっても、誇張ではなかったわけだ。

そんなわけで、内務班で散々反抗的な姿勢を見せて厄介者扱いされていた木谷一等兵も、脱走しそこなったにもかかわらず、それには何のお咎めもなく、淡々と南方戦線へ派遣されていくのである。むしろこの方が、木谷一等兵にとって重い処罰であると言いたいかのように。

映画の主人公木谷一等兵は、野間宏の分身と考えてよい。野間自身は思想的偏向がもとで陸軍刑務所に入れられ、原隊復帰したのであるが、彼自身は戦線へ送られることはなく、内地で敗戦を迎えた。もしも木谷一等兵のように南方戦線へ派遣されていたら、この小説を書くことはなかったかもしれない。

なお、この映画の舞台となった兵営は千葉県佐倉市にあったいわゆる佐倉連隊で、映画で使われた兵舎も佐倉連隊のものをそのまま使用したということだ。この連隊敷地は、いまは国立歴史民俗博物館になっている。







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