阿呆船:フーコー「狂気の歴史」

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フーコーは「狂気の歴史」の叙述を「阿呆船」への言及から始める。「阿呆船」というのは、北方ルネサンスを彩ったイメージの一つで、阿呆どもを大勢乗せた船が、ヨーロッパの川に浮かんで、都市から都市をさすらうということが主なテーマになっている。これをフーコーは、狂気についてのルネサンス人の感受性が反映されているものと考え、視覚的にはボスやブリューゲルの絵、文芸としてはブラントの阿呆船についての考察やエラスムスの痴愚神礼賛の精神がそれを代表していると見ている。

フーコーが阿呆船に注目したのは、それが狂気をめぐるヨーロッパ人の歴史の中で特別な意義を持っていると考えたからだ。この著作でフーコーが意図したことは、彼が古典主義時代と定義づける17世紀から18世紀いっぱいにかけての、普通は啓蒙の時代と呼ばれる時代にあって、狂気が社会から排除され、監禁されるようになる過程を描くことにあったが、阿呆船の時代は、その直前の時代として、中世と古典主義時代の境目にあった。中世においては、狂気は社会から排除されておらず、かえって大事なものとして受け入れられていたくらいなのであったが、それが古典主義時代になると、社会から排除されて監禁されるようになる。阿呆船の時代は、この統合から排除への過渡期に位置する時代であり、阿呆船はその移行を象徴するイメージだったわけである。

従って阿呆船には、狂気を親しいと感じる感受性と、それを排除しようとする傾向とが同居している。狂気への親しみの感受性は、ルネサンス期のヨーロッパ人が中世から受け継いだものである。中世と雖も、狂気のすべてが親しみの対象になったわけではなく、なかには妖術と結び付けられて迫害の対象とされたものもあるが、阿呆と呼ばれるものや妄想の類のものは、神からの使いとして丁重に扱われ、それらの人々は、社会の中にそれなりの居場所を持っていた。こうした狂気への親しみの感情は、エラスムスの痴愚神礼賛のなかで、もっとも見事な表現を得ている。エラスムスにあっては、狂気は正気の真逆ではなく、正気の程度を図る物差しとして活躍するのである。

一方、排除の傾向について言えば、それは問答無用の排除ではなく、中途半端な厄介払いとしての面が強い。排除の究極の形は、この世から見えなくさせるということであり、それは、根本的に見えなくすること即ち殺してしまうことのほかに、とりあえず見えなくすること即ち監禁することと二つがあるが、阿呆船における排除の形は、そのようなドラスティックな形を取らない。とりあえず阿呆たちを船に乗せて、追っ払おうとするくらいである。阿呆たちは船に乗っているだけだから、他の人々の眼には見えている。しかし、彼らがそうした人たちの社会に暖かく迎え入れられることはもはやない。というわけで、阿呆船は、統合と排除の中途半端な結合なのである。

阿呆船が、中世と古典主義時代との狭間に生まれた過渡的なイメージだということはわかったとして、では何故この過渡期の時代に、ほかならぬ「阿呆船」のイメージが前面に出て来たのか。この疑問に対してフーコーは、「死の舞踏」で象徴されるヨーロッパ人の死への普遍的な恐怖をあげて説明している。阿呆船のイメージが登場するのは15世紀の末近くになってからだが、そのすぐ前、つまり15世紀半ばころまでは、ヨーロッパには至る所死が充満していた。それをもたらしたのはペストである。中世からルネサンス時代前期にかけて、ヨーロッパには間歇的に疫病の浪が押し寄せ、そのたびに夥しい数の人が死んだ。だからその時代のヨーロッパの人々にとって死は身近なものだった。そういう身近な存在としての死を擬人化したのが「死の舞踏」のイメージだ。

ところが15世紀の末以降、すなわち阿呆船の時代になると、疫病は姿をひそめ、死は身近なものではなくなった。そこで人々は、安堵と喜びの笑いをもよおした。その笑いの精神が阿呆船のイメージと結びついたというのである。というのも、阿呆は何もかも笑い飛ばす、死でさえも例外ではない。「死の舞踏」では、死神が人間の哀れな運命をせせら笑っているが、いまや「阿呆=狂人の笑いが死の笑いを笑っている」(「狂気の歴史」第一部第一章、田村俶訳)というわけなのである。

ところでフーコーは、阿呆船の記述に先立って「癩施療院」に言及している。中世のヨーロッパは癩病が蔓延する世界だった。この病気に対して、社会はそれを閉じこめる、つまり患者を監禁する、という方法で防衛を図った。このために夥しい数の監禁施設が「癩施療院」という名称で作られた。13世紀のフランスだけでも、その数は2000を超えていたという。ところが中世末期になると、ヨーロッパから癩病が姿を消す。それによって夥しい数の「癩施療院=監禁施設」が、使用されないままに残された。だがやがて、この監禁施設を埋めるべき新たな対象が生み出されるだろう。その中心になったのが、狂気に見舞われた人々だったのである。ということは、狂人=阿呆たちは、いったん阿呆船に乗せられて都市と都市の狭間の空間をさ迷い歩いたあげくに、最後の停泊地としての監禁施設に消えて行くという段取りだったわけである。そのあたりをフーコーは次のように書いている。

「狂気の船が寿命をまっとうして一世紀ばかり過ぎると、<狂人施療院>という文学上の主題が現れるのが認められる。そこでは、つなぎとめられ、命令を下された、うつろな頭の人々が人間どものまことの理性に服従して、たとえば矛盾と皮肉を、『知恵』の二重の言語をしゃべっている」(同上)

こうなると狂気は、中世にあっては普通の状態であり、阿呆船の時代でもなかばそうだったような、社会との堅い絆という関係を失って、もっぱら社会から排除された存在、社会によって常に監視されている状態に転落するわけである。その状態についての考察は、「大いなる閉じ込め」のメーンテーマとなるだろう。

関連サイト:知の快楽  





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